"忘れた財布が暴いた、娘の結婚の地獄" 第15話
「居すると仕事の邪魔になるから、今はこの辺で帰るわね」
「うん、ありがとう。苺、すごく甘そう。また来週、実にも顔をすね」
娘のるい笑顔に見送られ、私はアパートをにした。
駅へ向かう坂を歩きながら、私はの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。 端の桜の蕾が、先端をほんのりとピンクに染めている。
切符を取りそうと、何気なくハンドバッグのにを入れた。 底を指先で探る。
……ない。
革の触りがない。 ち止まり、鞄のをきくけてを覗き込んだ。 定期入れはある。ハンカチもある。けれど、使い慣れた財布が見当たらない。
「……もう、またやったわ」
わず苦笑いがこぼれ落ちた。 娘の部のテーブルのに、そのまま置き忘れてきてしまったのだ。
の。 純平のマンションで財布を忘れたの記憶が、瞬だけ脳裏をかすめた。
けれど、今の私の胸のには、あののような得体のれない胸騒ぎも、たい恐怖も、焦燥も爪の先ほどすらなかった。 あるのはただ、自分のそそっかしさに対する呆れと、穏やかなの陽気だけだった。
私は踵を返し、今来たをゆっくりと引き返し始めた。
アパートのに戻り、階段をがって、娘の部のドアのにつ。 鞄のには、娘から預かった鍵が入っている。 自分でければ、わざわざ娘のを煩わせることもない。
広告
それでも私は、迷わず鍵を鞄の奥に残したまま、玄関の横にあるインターホンに指を伸ばした。
ピンポーン
「はーい、どちら様ですか?」
「お母さんよ。けないんだけど、また財布を忘れてしまったみたいで」
スピーカーの向こうから、クスクスと楽しげな笑い声が弾けた。
「もう、お母さんったら! ちょっと待っててね」
ガチャリと内鍵が回り、扉がゆっくりと側へかれた。 そこには、私の財布をにした娘が、呆れたような、けれど底抜けに温かい笑顔でっていた。
「はい、これ。テーブルのに置きっぱなしだったよ」
「ごめんなさいね、わざわざけさせてしまって」
財布を受け取ると、娘はふざけるようにし首を傾げてみせた。
「鍵持ってるのに。自分でけて入ってくればよかったじゃない」
私は財布をしっかりと抱え込み、優しく首を横に振った。
「ここは、あなたのだもの。鍵を持っているからって、勝に入るのは違うとうのよ。あなたが自分のでけてくれることが、何より切なんだから」
娘は私の言葉を聞いて、瞬だけ驚いたように目を丸くした。 そして、どこか泣きそうな、けれどこのなくおしそうな表を浮かべて、静かに微笑んだ。
「……そっか。お母さんは、ちゃんとノックしてくれるんだね」
その言の奥に、かつてあの男に自分の尊厳も、プライバシーも、の領域もすべてで踏みにじられ続けていた過の痛みが、静かに昇華されていくのが分かった。
「お母さん、もう杯だけお茶んでいく?」
「ううん、今はもう帰るわ。夕飯の支度もあるしね」
「そっか。気をつけて帰ってね」
「ええ、ありがとう。またね」
娘のによって、静かに扉が閉じられた。 内側から、カチャリと確実に鍵がかけられる音が廊によく響く。
自分のでち、自分ので扉を閉め、自分の志で鍵をかける。 その当たりで、かけがえのない自由を、あの子は取り戻したのだ。
アパートの階段をり、夕暮れに染まり始めたへと歩きす。 の空が、茜からい群青へと美しくグラデーションを描いていた。 鞄のの財布に触れると、のひらに確かな温もりが伝わってくる。
あの、取りに戻ったのは財布だった。 でも、そこで私が見つけたのは、ずっと助けを求められずにいた娘の姿だった。
あれから半。 私が今、再び取りに戻ったのも、ただの財布だった。 けれど、そこで私が確かめたのは、もう度と誰にも脅かされることのない、娘の確かな自由と尊厳だった。
私はを向き、確かな取りで、夕暮れのを歩き続けた。