"大手術の3日後、夫が勝手に進めていた旅館の経営移管" 第17話
それが、夫がで元に残したすべての結果だった。
相澤真理子からの請求を支払えば、元にはほとんど何も残らない。
「署名と捺印を」
野寺先が万を差しす。
夫は震える指でペンを握り、何度も躊躇いながら、最は諦めたように自分の名をき殴った。 朱肉の匂いが、静まり返った部に微かに広がる。
すべての類がったとき、夫はゆっくりと顔をげた。
「……、すまなかった」
絞りすようなその言葉に、私は何も返さなかった。 許すことも、責めることも、もう何のも持たない。
「荷物はすべて、沼津のウィークリーマンションに送ってあります。見荘の敷には、度とち入らないでください」
ちがり、く礼した私に、夫はかける言葉を見つけられないまま、ただ項垂れて座り込んでいた。
事務所のドアをた瞬、伊豆の初のが、私の頬を優しく撫でた。
見げた空は、抜けるように青かった。 戸籍からも、常からも、あの男のは完全に消えったのだ。
それから、半が流れた。
の気配がまり、見荘の庭の々が鮮やかな朱に染まり始めた頃。
私の体調は驚くほど順調に回復していた。 定期な血液検査の数値も定し、主治医からも「通常の活、適度な仕事なら何の問題もない」と太鼓判を押されていた。
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もちろん、以のようにすべてをで抱え込むような働き方はやめた。
現の統括は芳さんに正式に「総支配」として委ね、予約管理と仕入れの監査には、部から招いた経験豊富な女性マネージャーを登用した。 経営の事項は、度の幹部会議で全員ので透性を持って話しう。
私が倒れたことでまれた空は、従業員たちとの絆をより固なものに変えていた。
もちろん、経営が薔薇になったわけではない。 のによるキャンセル、老朽化した浴のボイラー修理の見積もり、材の騰。 温泉旅館の経営には、毎を抱えるような現実な課題が次から次へと押し寄せてくる。
けれど、帳に座って帳簿をめくる私のには、かつてのような孤独や怯えは微もなかった。
「女将さん、お見送りのおです」
芳さんの柔らかな声に顔をげ、私は笑顔でちがった。
玄関へ向かうと、そこには代半ばとおぼしき、品な老夫婦がっていた。 夫が妻のをいたわるように引き、ゆっくりと敷台をりていく。
「女将さん、本当にお世話になりました」
髪の男性が、穏やかな笑みを浮かべて私にをげた。
「にね、ここで婚旅の夜を過ごしたんですよ。あの頃は先代の女将さんが、玄関先で々とをげて迎えてくださった」
「まあ……そうだったのですか」
「内がを悪くしてね、もうは無理かとっていたんですが……い切って来て本当によかった。昔と変わらない温かいお湯と、のこもったお料理に、で涙がそうになりましたよ」
奥様が、私のを取ってさく握りしめてくれた。
「また、来もで来ますね」
「ありがとうございます。より、お待ち申しげております」
が見えなくなるまで、芳さんと並んでを振り続けた。
の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
母が遺してくれた旅館。 それは、誰かが利権を奪い取って私腹を肥やすための具でも、誰かの見栄を満たすためのでもない。
訪れたが羽を休め、切なとの記憶をね、またからきていくための力を持ち帰る所。
からへと渡されていく、目に見えない信頼の器。
その本当の価値を、あの男はいても、ついに理解することはなかったのだ。
夕暮れ。 客の準備を終え、静まり返った帳に戻る。
机のには、来期の修繕計画と、従業員たちの昇を含めたしい事業計画が置かれていた。 番の承認欄に、私は迷いのない致で、自分の名を署名した。
『代表取締役 望綾子』
ペンを置き、窓のに目をやる。 庭の池に引かれた温泉の面から、い湯気が柔らかくちっていた。
灯籠にかりが灯り、畳をかなが照らししている。
ふと、あのの病の景がをかすめた。
い井。 麻酔のたさ。 そして、元で囁かれたあの残酷な言葉。
『もう旅館のことは考えなくていい。これからは俺が引き継ぐから』
あの瞬、私のは度、暗のに突き落とされた。 けれど、絶望の底で私が選んだのは、誰かの敷いたレールのでれに消えることではなかった。
たいが、窓の隙から吹き込んでくる。 痛みの消えた腹部にそっとを当て、私は庭の灯を見つめながら、静かに、誰にも聞こえない声で呟いた。
「まだ、きている」
く息を吸い込む。 胸の奥に、確かなが満ちていく。
「だから、これからのことは私が決める」
簾をくぐり、今夜の最初のお客様を迎えるために。 私は背筋を凛と伸ばし、自分ので、しっかりとへ歩きした。