"赤ペンの死線と消えた五年間" 第10話
レンの脳内で、これまでので解いてきた何千、何万もの数式が、まるで奔流のように本の線へと収束していく覚があった。 ハルカがなぜ、いつも自分の突拍子もない珍解答に付きってくれるのか。 なぜ、放課の貴なを削ってまで、自分の補習に何も付きってくれるのか。 それは決して「暇つぶし」でも「幼馴染の義理」でも説がつかない、圧倒に自然な確率の偏りだった。
「……ハルカ」 「何かしら」 レンは机のに置かれていた自分の本史のテスト用を、両で静かに裏返した。 真っな裏面。 そこに、レンは持っていた黒のシャープペンシルで、きな文字をつ、迷いなくき込んだ。
$$\lim_{t \to \text{now}} P(L\vert{}S) = 1$$
「パラメータの再設定は終わったよ」 レンは顔をげ、器用だが、これ以ないほど真っ直ぐな笑みを浮かべた。 「俺はもう、提条件を読みばしたりしない。目のにあるシグナルのを、ちゃんと正しく代入する準備ができた」
放課の図には、が止まったかのような静寂が横たわっていた。古びた製の本棚から漂う乾燥したの匂いと、に引かれたワックスのかすかな刺激臭が、夕暮れのたい空気ので混ざりっている。側のきな窓から差し込む斜は、埃の粒子をに浮かびがらせ、レンとハルカが向かいって座るきな閲覧机を、鮮やかな朱に染めげていた。
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机の央には、先ほどまで彼らの議論のとなっていた枚のプリント――問の横に容赦ない赤インクできなバツ印がつけられた、本史の定期テスト用が置かれていた。だが今、そのは静かに裏返されている。
真っな裏面の余に、レンのらせた黒いシャープペンの跡が、夕を受けて鋭くっていた。
$$\lim_{t \to \text{now}} P(L\vert{}S) = 1$$
ハルカはその数式を見つめ、それから信じられないものを見るように目を見いた。
普段の彼女であれば、どんな難解な現代文の記述問題にも、論理の破綻した数学の答案にも、眉ひとつかさずに静な批評をすはずだった。しかし今、彼女の端正な顔ちを支配しているのは、完全な揺だった。鏡のフレームが夕を反射してきらめき、その奥にあるきな黒目が、数式の『$1$』という極限値ので何度もち止まる。
夕の朱が、窓ガラス越しに彼女の皙の頬を鮮やかに染めげていく。それがの物理な彩によるものなのか、それとも急速にを帯びた彼女自の体温によるものなのか、レンには判別がつかなかった。
沈黙が、く、だが優しくのにり積もる。 数秒、いや、数分にもじられる空の、ハルカは膝のに置いていた文庫本をとっさに持ちげ、自らの顔の半分を覆い隠した。
の束の向こうから覗く瞳が、かすかに潤んでいる。やがて、その肩がさく震えた。
「……ばーか」
漏れたその声は、かつてないほど柔らかく、微かに震えていた。いつもの徹な図の主のトーンでも、レンの絡な考を容赦なく切り捨てる庭教師の響きでもない。それは、ただの歳の女が、の奥底から零れ落としたの音だった。
「数学の記号でしか気持ちを返せないなんて、本当に……救いようのない理系バカね」
本越しに向けられたその瞳は、っているようでもあり、呆れているようでもあり、そして何よりも、どうしようもないおしさに耐えかねているようにも見えた。
レンは首のろをで掻きながら、さく苦笑を漏らした。臓の鼓がの奥で鐘を打っていたが、度解き放った論理の解を引っ込めるつもりは毛なかった。
「悪かったな。でも、これが俺のせる最も厳密な解だ」 「減点よ。単位がついてないわ」 「気持ちに単位なんてあるかよ」 「あるに決まってるでしょ。ジュールでもワットでも、それこそ常言語の言葉のみでも……物理量として定義できないものを極限値で $1$ に収束させるなんて、厳密でも何でもない、ただのインチキよ」
そう言いながらも、ハルカは文庫本をろそうとはしなかった。本の背表を握る彼女の指先が、くなるほどく力んでいる。
その指の震えが、彼女ので渦巻くの激しさを何よりも雄弁に物語っていた。