"赤ペンの死線と消えた五年間" 第1話
夕暮れの教は、どこか気の抜けた静けさに包まれていた。放課のチャイムが鳴り響いてから分、黒板には斜めに差し込む茜のがく伸び、チョークのがの粒子となって微かにっている。
「……納得がいかない」
の相良レン(さがら・れん)は、机のに広げられた枚の答案用を睨みつけ、呻くように呟いた。
問題のペーパーは『本史 第4回 定期テスト』。 その問、最初の問に、これ見よがしに真っ赤な巨な「×」印が刻まれていた。さらにその横には、担当教師である武藤先の丸っこい、しかし容赦のない跡でこう追記されている。
『よく考えましょう。』
「どこが違っているんだ。引き算だぞ。れっきとした則演算だ。千百から千百を引いたら、絶対にだろうが!」
レンはを抱え、乱暴に髪を掻き回した。 彼は粋の理系だった。数式を見れば脳内でシナプスが瞬に結し、微積分も数列もパズルのように解いてみせる。だが、その代償として文系科目、とりわけ国語と歴史の文読解には致命な点を抱えていた。数字が見えると、の文脈を無して脊髄反射で計算式を組みててしまう悪癖があるのだ。
「相良くん、君のその凄まじい叫び声、廊の端まで響いていたよ」
教のろの引き戸がガラリとき、呆れたような声が掛けられた。
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入ってきたのは、文芸部部にして学トップの優等、ハルカ(しらいし・はるか)だった。った黒髪をハーフアップにし、には文庫本を抱えている。レンとは学からの腐れ縁で、彼の「数字にいくせに本語に騙される」性格を誰よりも熟している物だ。
「ハルカ、ちょうどいいところに来た。武藤先の採点ミスを暴いてくれ。俺の尊厳と点が奪われたんだ」
レンは縋るようにテスト用をハルカの先に突きした。ハルカは眉をひそめながら答案を受け取り、線を落とす。
問題文: 『徳川康は、1603に戸幕府をきました。それよりの1598に豊臣秀吉がくなっています。豊臣秀吉がくなってから徳川康が戸幕府をくまで、豊臣秀吉は何きていましたか。(10点)』
レンの解答: 『1603 - 1598 = 5() 答え:5です。』
ハルカは数秒、その答案をまじまじと見つめた。 そして、すうっと息を吸い込むと、元の文庫本で元を押さえた。肩が微かにプルプルと震えている。
「……ぶっ」 「おい、笑うな! どこがおかしいんだ!」 「ふふ、あっははは! ちょっと、レン、本気で言ってるのこれ? 秀吉が成仏できずにアンデッドとして現世をも彷徨ってた設定なの!?」 「なっ……!?」 「よく読みなさいよ。『豊臣秀吉がくなってから』っていてあるでしょ! くなったが、そのあとどうやってきるのよ! 答えは『零』、あるいは『きていない』に決まってるじゃない!」
ハルカの容赦のない指摘が、教の空を鋭く切り裂いた。 レンはに打たれたように直した。
「……あ」 「『あ』じゃないわよ。武藤先の『よく考えましょう』は至極真っ当なアドバイスよ。先も採点しながら吹きしたに違いないわ」 「で、でも……それなら問題文がおかしいだろ! 『何きていましたか』なんて聞かれたら、そこにある号の差を求めるのが自然な考の流れじゃないか!」 「それは『文章を読んでいないの自然な考』ね。数学でも定義域や提条件を確認するのは基本の基本でしょ? これは歴史の問題を装った、論理読解力と命題の提条件を試すひっかけよ」
ハルカはレンのの席の子を反対向きにして座り、鞄から本の赤ペンを取りした。
「いい、レン。数学と常言語の最の違いはね、『提の自性』にあるの。数式はすべて記号で定義されるけれど、言葉にはの常識というの定義域がするのよ」 「の定義域……?」 「そう。例えば関数 $f(t)$ を『秀吉の命状態』とするじゃない。を $1$、を $0$ とする。秀吉がくなったのが $t = 1598$ なんだから、それ以のすべての $t$ において $f(t) = 0$ なのよ。それなのに君は、区 $[1598, 1603]$ のさをただ積分して $5$ と答えてしまった。の関数がずっとゼロなのにね」
ハルカはノートに素く数式とグラフを描いてみせた。