"挙式前夜に「家を寄越せ」と迫る娘と、席を捨てた母" 第16話
ただ、静かに頷いただけだった。
「お母さん」 娘がバッグの持ちをくなるほど握りしめ、消え入りそうな声で私を呼んだ。 「あの……お正、どうするの……?」
その瞳には、かつて私に依しきっていた頃の、けない甘えのが微かに浮かんでいた。 すべてを失った今、母親ならまた「変だったわね」と迎え入れてくれるのではないかという、勝な期待。
私はバッグから、真央の部に残されていた鍵を取りし、テーブルのにコトリと置いた。
「お正は、健司さんとで温泉で過ごす予定よ」
娘の息が止まる。
「真央、あなたにはあなたのおがあり、あなたの活があるわ。これからは自分の稼いだおと、その遺産で、自分の力できていきなさい」 私はまっすぐに娘を見つめた。 「困ったからといって、私を頼ることはもう許しません。……私たちはお互いに、もう自した同士なんだから」
娘はテーブルのの鍵を見つめたまま、言葉を失っていた。 やがて、溢れそうになる涙を必に堪えながら、さく、本当にさく頷いた。
事務所をると、の澄み切った青空がどこまでも広がっていた。 たいが頬を刺したが、私の胸の奥は、議なほど温かかった。
しいまいは、郊の私鉄沿線にある、築浅のさなマンションだった。
で暮らすには分な2LDK。
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向きのリビングには柔らかな陽が差し込み、ののような底えする隙はどこにもない。 ベランダには、健司さんが趣で集め始めたオリーブやハーブのさな鉢植えが、よいのに揺れていた。
「弓子さん、夕飯の買い物、緒にこうか」 客の斎から顔をした健司さんが、穏やかに笑いかけた。 「駅にしい魚ができたみたいなんだ。今夜はブリ根にでもしようか」
「いいわね。姜をめに入れて炊きましょう」
私はエプロンをし、コートを羽織った。 玄関の靴箱のには、の夫のさな写真てと、健司さんが旅先で買ってくれたらしい信楽焼のタヌキの置物が、並んで置かれている。
過を否定する必も、誰かに気兼ねをする必もない。 ただ、自分の選んだと、嘘のないを丁寧に紡いでいく。 それだけで、はこんなにも軽やかで、息がしやすいものなのだと、歳になって初めてった。
それから、が過ぎた。
庭がづき始めた、の終わりのある。 買い物の帰り、集ポストのダイヤルを回すと、通のい定形封筒が入っていた。
差の欄には、見慣れた文字で『佐藤真央』とだけかれていた。
指先が瞬、張った。 また何か無されるのではないか、という古い条件反射が、微かに背筋をる。
部に入り、靴を脱いでリビングへ向かう。 キッチンでは健司さんが、汁のいいりを漂わせながら、夕の噌汁を温めてくれていた。
私はダイニングテーブルの子に腰をろし、封筒の封を切った。
から滑りてきたのは、ではなかった。 沢のある、枚の写真だった。
写真のには、公園の芝ので、おぼつかない取りでちがっている、さな男の子が写っていた。 ふっくらとしたい頬、笑うと細くなる目元。 どこか、幼い頃の真央に似ている。
写真の裏面をめくると、い文字がだけ、鉛で記されていた。
『歳になりました。元気に育っています。 真央』
助けてほしいとも、会いに来てほしいともかれていなかった。 もちろん、おの無も、過への謝罪の言葉すらなかった。
ただ、自分がしい命を産み、自分のでその子を育てているという、事実だけがそこにあった。
「……そう」
私は写真の表面を、指先でそっと撫でた。 目がしだけくなったが、涙はこぼれなかった。
輔さんとやり直したのか、それともで育てているのか、私には分からない。 ろうとする必も、今の私にはなかった。 あの子はあの子の選んだ現実ので、痛みを引き受けながら、ようやく自分のを歩み始めたのだ。
「弓子さん、お噌汁が温まったよ。
先にご飯にしようか」 台所から、健司さんの温かい声が届いた。
「ええ、今くわ」
私は写真を、リビングのチェストの引きしへと静かにしまった。
机のにしっぱなしにすることもなく、すぐに返信のペンを執ることもない。
母としてのは、今も胸の奥にある。 けれど、そのを証するために、自分のを差しす季節は、もう度と戻らない。
私はすっと背筋を伸ばし、湯気のつ温かい卓へと、軽やかな取りで歩みをめた。