"目覚めた部下にクビを問われた" 第24話
スーツはもう着ていなかった。 紺の作業着の袖をまくり、には点検用のクリップボードと懐灯。 かつて私が「非効率」と切り捨てた、臭い現の巡回が、今の私のすべてだった。
午。 朝の配膳が終わり、宿泊客がチェックアウトを始める帯。 本館階の側廊で、私はしく設置された防扉のラッチをで押し込み、スムーズに噛みうかを確認していた。
カチャリ、と気よい属音が廊に響く。 異常なし。 私はクリップボードの点検表に、黒いボールペンで丸をつけた。
そのだった。
廊の向こうから、ゴロゴロとリネンカートを押す、静かな輪の音がづいてきた。
顔をげると、そこに彼女がいた。
森さんだった。
今が、ヶぶりの現復帰のだった。 ネイビーの清潔な制に、糊のきいたいエプロン。 髪はろでしっかりと束ねられ、額の傷跡はい髪で自然に隠されていた。 取りは確かで、かつてのような怯えや痛ましさは、どこにもなかった。
カートを押すそのち姿は、、この翠閣を支え続けてきた、誰もがる「客部主任・森美」そのものだった。
彼女の記憶は、結局、戻らなかった。 主治医の診断通り、あの失われたの記憶は、すっぽりと抜け落ちたまま固定化していた。
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私たちが共に戦い、共に笑った百余りの々は、永に彼女ののから消えってしまったのだ。
森さんが、を止めた。 防扉のにつ私に気づいたのだ。
廊の窓から、柔らかな朝のが差し込み、ののを照らしていた。
私は、に持っていたクリップボードをろし、背筋を伸ばした。 そして、彼女に向かって歩み寄った。
歩でち止まる。 親しげに声をかけることはしなかった。 過のいを共しているかのような顔をすることも、決してしなかった。
私は、彼女の目を見つめた。 そして、腰を直角に折り、々と、をげた。
「森さん」 私の声は、静かに廊に響いた。 「、私はこの所で、あなたに『ついてこれないなら引き際を考えろ、代わりはいくらでもいる』と言いました。あなたのの誇りを踏みにじり、く傷つけました」
をげたまま、私は言葉を続けた。 胸の奥に、ずっと澱のように溜まっていた言葉を、文字ずつ吐きすように。
「本当に、申し訳ありませんでした」
廊に、静寂がりた。 が庭の々を揺らし、葉の擦れう微かな音が聞こえていた。
数秒の。
「……顔をげてください、坂井さん」
穏やかな、澄んだ声だった。
私がゆっくりと顔をげると、森さんはエプロンので両をね、私を真っ直ぐに見つめていた。
その瞳には、かつてのような敵も、恐怖もなかった。 ただ、の荒波をいくつも乗り越えてきただけが持つ、くて温かい静けさが湛えられていた。
「のその言葉は、とても痛かったです」 森さんは、しだけ困ったように眉をげて微笑んだ。 「あのは、悔しくて、悔しくて……本当に、あなたをみました」
「……はい」
「でも、そのの、私がどんなにあなたと働き、どんなに笑っていたのか……私には、どうしてもいせません」 彼女は自分のエプロンの裾を、荒れた指先でそっと撫でた。 「お医者様からも、もう無理にいそうとしなくていいと言われました。失われたは、もう戻ってこないのだと」
「……ええ」
「ですから」 森さんは、歩へみた。 そして、さく息を吸い込み、ピンと背筋を伸ばした。
それは、、初めて翠閣を訪れたお客様を迎えるときに、彼女がいつも見せていた――最に美しく、誇りい、完璧な礼だった。
をげた彼女の顔には、初の朝ののように、清々しい笑顔が咲いていた。
彼女は、エプロンからを差しした。 清掃と消毒で荒れ、節くれった、誇りきホテルマンのだった。
「初めまして、坂井さん」
いたずらっぽく、しだけ瞳を細めて、彼女は言った。
「全管理担当の坂井さんですね。客部の森です。
……本から、よろしくお願いいたします」
胸の奥で、何かが静かに、温かくほどけていくのをじた。
過は戻らない。
失われた記憶も、度と蘇ることはない。 の過ちが消えてなくなるわけでもない。
だが、私たちは今、ここから始めることができるのだ。 偽りの親を押し付けるのではなく、過のにすがるのでもなく。 互いの過ちと傷痕をそのまま抱きしめて、しい名で、しい関係を、この所から築いていくことができるのだ。
私は、作業着のを差しした。 煤の匂いの消えた、私の掌で、彼女の温かいをしっかりと握り返した。
「初めまして、森主任」
私の声は、しだけ震えていたかもしれない。 だが、その元には、で最も自然な、迷いのない笑みが浮かんでいた。
「こちらこそ……本から、よろしくお願いいたします」
窓のでは、青く澄み渡ったの空がどこまでも広がっていた。 握りったの温もりだけが、私たちがしく踏みす最初の歩を、静かに、確かに支えていた。