"祖母は十二年年賀状を書いてない" 第20話
そこには、劇な解も、涙の抱擁もなかった。 しかし、絡まりって腐りかけていた族の膿をし切ったあとに残った、清潔で、静かな境界線がそこにあった。
そして、さらにが過ぎた。 〇の、暮れも押し迫った曜。
私は久しぶりに、崎の実を訪れていた。
玄関をけると、以のような焦げた鍋の臭いも、アンモニアの臭いもしなかった。 廊には真しいすりが取り付けられ、壁にはデイサービスの週予定表と、訪問護ステーションの緊急連絡先がきく貼りされている。
居のコタツには、母が座ってお茶を淹れていた。 母の首には腱鞘炎の湿布が貼られていたが、その顔つきからは、かつてのヒステリックな棘が抜け、どこか腹の座った落ち着きが漂っていた。
「お母さん、お疲れ様」
「ああ、茜。いらっしゃい。今、おばあちゃんをお呂に入れて、がってきたところよ。……ふう、昔はあんなにさく見えた背が、洗うとなると結構労働なのよね」
母は苦笑いしながら、湯呑みを私のに置いた。 愚痴を言いながらも、そのつきには、活者としての確かな実が宿っていた。
ふと見ると、コタツの向かい側で、祖母が背を丸めて座っていた。 老鏡をのに引っ掛け、でしっかりとサインペンを握りしめている。
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そのを、震えを抑えるようにでから支えながら、のに置かれた枚の賀葉に向きっていた。
印刷されたものでも、代されたものでもない。 郵便局で買ってきたばかりの、真っな賀葉だった。
「おばあちゃん、何してるの?」
私が隣に腰掛けて声をかけると、祖母はゆっくりと顔をげた。 髪はすっかりくなり、顔の皺はさらにくなっていたが、その瞳は穏やかだった。
「……ん? ああ、茜かい。……これね、いてるんだよ」
「賀状?」
「そうだよ」
祖母は自そうに、しだけ胸を張った。
「デイサービスでね、字の練習をしてるんだ。先が『子さん、ゆっくりでいいからいてごらん』って言ってくれたからね。……今は、枚だけ、そうとってね」
机のの葉を見た。 宛名面には、拙い、きく波打った文字で、母の名がかれていた。
そして、裏面。 祖母が分以かけて、休み休み、震えるでを突き破らないように慎にいたのであろう、青いインクの文字が並んでいた。
そこには、もう、あの呪いのようなはなかった。
『元気にしています』も。 『配はいりません』も。 どこにもかれていなかった。
ただ、歪んで、かすれて、斜めに傾いたきな文字で、こうかれていた。
『てが ふるえます。 でも ことし みんなで うえた トマトは すっぱくて とても おいしかったです。
ふさこ』
最の『ふさこ』という平仮名の横に、さな青いインクの染みが、丸く滲んでいた。 の、あの悔し涙の赤い滲みとは違う。 老いて、壊れて、何もかもを失ったあとに、それでも自分のでペンを握り、自分の言葉をのに残した、確かなの跡だった。
「……お母さん」
母が、コタツの向こうからその葉を覗き込んだ。 そして、で元を覆い、ぽろぽろと涙を零し始めた。
「……にけたじゃない。……お母さん、すごくにけてるわよ……」
祖母は老鏡をし、照れくさそうに目を細めて笑った。
「そうかい? ……が震えちまって、みっともない字だけどねぇ。……これが、今の私の字だからねぇ」
の午の柔らかい差しが、障子越しに差し込み、コタツのの葉を静かに照らしていた。
庭の庭菜園には、今の、母と男伯父さんと叔父さんがで耕し直した、さなトマトの畝が残っている。 に実ったそのトマトは、形も揃いで、驚くほど酸っぱかったけれど。 私たちは全員でそのトマトをかじり、顔を見わせて、「酸っぱいね」と笑いったのだ。
嘘の平穏は、もうここにはない。 あるのは、老いと、介護と、すれ違いと、それでもなお続いていく、器用で、臭い族の常だけだ。
私は、祖母の震えるを、両でそっと包み込んだ。 乾いてたい祖母ののひらから、かすかな、しかし確かな体温が、私の胸の奥へとじんわりと伝わってきた。