"娘が義母に叩かれた日、娘婿はケーキで済ませようとした" 第11話
美咲の瞳から、筋の涙が静かに頬を伝った。だが、その声は微も震えていなかった。
「私はずっと待っていたのよ。あなたが夫として、私の境界線を守ってくれるのを」
「美咲……今からでも遅くないだろ? やり直そうよ、で……」
「もう遅いの」
美咲は首を横に振った。
「私ののにあった、あなたへのや信頼はね、あのヶでしずつ削られて……あの、お義母さんに叩かれた瞬に、最の滴まで零れ落ちてしまったのよ」
直さんの元が、引き攣るように震え始めた。
「夫は悪いではなかった」
美咲は、自分自に言い聞かせるように、静かに言葉を落とした。
「でも、私が傷つくたびに、傷つかなかったことにしてほしいと言うだった」
直さんの臓を、鋭利な刃物が正確に貫いた。弁の言葉が、何ひとつ見つからなかった。
自分がこれまで美咲に向けてきた笑顔。買ってきたケーキ。「母さんも悪気はないんだから」という優しい声音。それらすべてが、妻の傷に塩を塗り、血を流す妻に「痛くないと言え」と命じる拷問だったのだと、男は今、初めてった。
「直、私、もうあのには戻るつもりはないの」
美咲の決定な宣告が、ラウンジのたい空気に落ちた。
直さんの目から、堰を切ったように涙が溢れした。両で顔を覆い、肩を激しく震わせて嗚咽を漏らす。
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それは、母に鳴られたの恐怖の涙でも、妻に責められたの自己憐憫の涙でもなかった。自らの卑怯さと逃避が、最のを逆の獄へ追いやっていたという、遅すぎた真実の絶望だった。
「俺は……俺は取り返しのつかないことをしたんだな……」
指の隙から漏れる声は、壊れた械のように掠れていた。
美咲はちがった。テーブルのの鍵を瞥し、それから泣き崩れる夫を見ろした。
「の朝、弁護士の先から婚協議の申入が届くわ。財産分与については、あなたが負担した百万円も含めて、正当に精算しましょう」
「美咲……っ!」
直さんは涙でぐしゃぐしゃになった顔をげ、ろうとする美咲のコートの裾にを伸ばそうとした。
だが、触れることはできなかった。美咲の体を包む空気があまりにも徹で、もはやのそれになっていたからだ。
「俺たち、本当に……もう度やり直すチャンスはないのか?」
直さんの絞りすような問いが、美咲の背に投げかけられた。
美咲はを止め、振り返ることなく、静かに横顔だけを向けた。
「なくとも今は、もうあなたを待つには戻れない」
それだけを言い残し、美咲は歩きした。カツカツと規則正しく響くヒールの音が、ホテルのな絨毯を抜けてざかっていく。
直さんはテーブルに突っ伏し、きりで声を殺して泣き続けた。元に残された真鍮の鍵が、え切った接照のを浴びて、鈍くっていた。
ホテルのい回転扉を押しし、夜の気にを晒した娘が、仮まいのマンションへ戻ってきたのは午を回った頃だった。
部に入ってきた美咲の表を見て、私は何も尋ねなかった。ただ、沸かしておいた湯を急須に注ぎ、温かいほうじ茶を湯呑みに満たした。
美咲はコートを脱ぎ、揃えてハンガーに掛けると、テーブルの向かいに腰をろした。
「……全部、話してきた」
湯呑みからちる湯気をじっと見つめながら、美咲がぽつりと言った。声に震えはなかった。泣き腫らした気配も、りに潮したもない。嵐が過ぎったあとの、どこまでも透き通ったののような静けさだった。
「直さん、母さんを実に戻したって言ってたわ。荷物も全部運んで、私の机も納戸からしてリビングに戻したって」
「そう」
「俺は変わった、母親と戦ったって、必に訴えてた。……まるで、宿題を全部終わらせて褒めてもらいたがっている子供みたいだった」
美咲は、い茶を喉へ流し込んだ。
「でもね、お母さん。ちっとも嬉しくなかった」
「美咲」
「あのが母親にち向かってくれたことは、本当だとう。
でも、その変化はね、私がをて、弁護士をてて、自分の元が崩れそうになったから慌ててやったことよ。私がずっと助けを求めていた、あのは度だって私のためにいてくれなかった」