"妻を平手打ちした夫が、30分後「娘には言うな」と懇願した" 第20話
すべては、それぞれの選択がもたらした、ただの当然の結末だった。
私はといえば、病院の医療事務の仕事を続けながら、内の駅にある築の賃貸マンションに引っ越していた。ワンルームに毛がえた程度の、さな部だ。だが、向きのベランダからはくに並みが見え、朝には柔らかい陽が部いっぱいに差し込む。何より、誰の顔を窺う必もなく、誰の理尽な声に怯えることもない。自分の稼いだで賃を払い、自分がべたいものを作り、自分が読みたい本を読んで眠りにつく。そんな当たりの活が、これほどまでに甘美で温かいものだとは、度もらなかった。
「お母さん、お待たせ!」
曜の夕暮れ。駅のさなビストロの入りで、ウールのコートを着た結がを振った。
赤いチェックのマフラーを巻いた結は、以よりもしびて、そしてずっとれやかな笑顔を浮かべていた。会社での仕事も順調らしく、からはしいプロジェクトのサブチーフを任されるのだという。
「寒かったでしょ。入ろう」
案内されたのは、に面した窓際の、さな掛けのテーブルだった。内にはばしいバターとニンニクのりが漂い、壁の黒板にはきのフランス料理のメニューが並んでいる。
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「ここね、会社の先輩が教えてくれたの。さなおだけど、お肉料理がすごく美しいんだって」結は嬉しそうにメニューをいた。
「結、こんなちゃんとしたお、かったんじゃない?」
「いいの! 今は特別ななんだから」
料理が運ばれてきて、グラスに注がれたスパークリングワインでさく乾杯をした。泡がグラスの底から、筋ののようにちっていく。
運ばれてきた鴨肉のローストに舌鼓を打ちながら、私たちはのない話をした。居のカーテンのをどうするか。結の職の面い輩の話。私が先から通い始めた、民講座の写真教のこと。
「写真、どう? 楽しい?」
「すごく楽しいわよ」私はスマートフォンを取りし、先週の休に公園で撮った杏のの写真を見せた。「の加減ひとつで、見慣れた景が全然違って見えるの。昔から、ずっとやってみたかったのよね。浩さんが『カメラなんてのかかる楽だ』って嫌がってたから、諦めてたけど」
「綺麗……すごくいい写真」結が画面を指でなぞりながら、柔らかく微笑んだ。「お母さん、昔からセンス良かったもんね。もっとく始めればよかったのに」
「もうよ。今から始めたって、プロになれるわけじゃないし」
私が照れ隠しにそう言うと、結はグラスを置き、私の目をまっすぐに見つめた。
その、の奥から員がさな箱を持って現れた。テーブルのに置かれたのは、い陶器の皿。そこには、鮮やかなベリーで飾られたさなチョコレートケーキと、のような細いキャンドルが本、パチパチと音をてて灯っていた。
皿の縁には、チョコレートの文字でメッセージが描かれていた。
『Joyeux Anniversaire Miki』
「……え?」私は目を見張った。「結、これ……」
「お母さん、先週誕だったでしょ」結は悪戯っぽく笑った。
「でも、私の誕なんて、とっくに過ぎてるし……」
「いつもそうやって誤魔化してたじゃない」結の声が、しだけく、温かくなった。「昔から、お父さんの誕は何週もからプレゼント選んで、ご馳作って、おばあちゃん呼んで騒ぎしてたのに。お母さんの誕は、いつもスーパーの残り物のケーキで、誰もお祝いしなかった」
胸の奥が、ツンと痛んだ。
「お母さん、も自分の誕を回しにしてきたんだよ。だから、これからは毎、私が盛にお祝いするの」
結はバッグから、さな包みを取りして私のに置いた。けてみると、革製の頑丈で美しいカメラストラップが入っていた。みのあるボルドー。私の好きなだった。
「これ、写真教で使って」
「結……ありがとう」界が滲んで、ケーキのキャンドルのが滲んだのように広がっていく。
涙をこぼさないように、何度も瞬きをした。
「お母さん」結がテーブル越しに、私のに自分のをねた。
そののひらは、あのホテルのラウンジでえ切っていたとは違い、驚くほど温かかった。
「これからは、自分のためにもきてね」
娘のその言が、私の胸の奥くに、静かに、優しく染み渡っていった。
誰かの妻としてではなく。誰かの母親という役割のに。私は、及川美紀というのとして、ここにきている。
「……うん。そうするわ」
私はきく息を吸い込み、揺れるキャンドルの炎を、吹き消した。さな煙が細くちり、甘いりと共に消えていく。
をると、夜のには澄み切ったたいが吹いていた。見げた空には、つなく、の座が青いを放っている。
「来、写真教の実習でにくんだけどね」並んで歩きながら、私はマフラーに顔を埋めて言った。
「? どこの?」
「浦岸。朝のを撮るんですって」
「いいな。私、そうか? ドライブがてら付きうよ」
「本当? 助かるわ」
のが、灯のに引かれて、アスファルトのにく伸びていく。並んで歩く音は、驚くほど軽やかだった。