"「毎日そんなに持ち帰るのか」厳しい常連客が父を見て泣き崩れた" 第17話
広げると、それは写真展の資料からコピーした、当の『ひだまり』のメニュー表だった。
『ビーフシチュー 百円』 『ライス 百円』
赤ペンの丸で囲まれたその数字を、黒田様はテーブルのにそっと置いた。
「仕事が見つからず、飢えて倒れそうだった私に、あなたは『はでいい』と、これをべさせてくれた」
黒田様の目から、粒の涙がポロポロと零れ落ち、テーブルの目を濡らしていく。
「『仕事が見つかるまで飯をいに来い』と、ツケで私をかしてくれた。……佐伯さん。覚えていらっしゃらないのは、分かっています。でも、どうしても……あなたに言わなければならないんです」
会のざわめきが、いつのにか静まっていた。 昔馴染みの常連たちも、厨の若いシェフも、巻きに息を呑んでこのテーブルを見つめている。
父は、黒田様の涙を見つめていた。 眉を寄せ、困惑し、何かを掴み取ろうとするように、濁しかけた瞳を微かに見く。 けれど、言葉はてこない。 沈黙が、痛いほどく部を支配した。
やっぱり、無理なのだ。 の歳と、脳の病は、奇跡など起こしてはくれない。 胸の奥にたい諦めが広がり、私が「黒田様、そろそろ……」と割って入ろうとした、その瞬だった。
父の線が、テーブルのの湯気をげるシチューと、泣き崩れる男の元に落ちた。
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父の喉仏が、ゴクリといた。 背筋が、すっと伸びる。 認症の老の顔から、何かが抜け落ち、にカウンターの向こうで鍋を握っていた男の輪郭が、信じられない鮮さで浮かびがった。
父は、ゆっくりとをいた。
「……仕事は、見つかったのかい?」
部の空気が、完全に止まった。
く、ぶっきらぼうで、けれど底抜けに温かい、職の声。
黒田様が、弾かれたように顔をげた。 息を呑み、胸を押さえ、声にならない嗚咽を漏らしながら、子供のように激しく何度も頷いた。
「はい……っ! はい……! おかげさまで……ちゃんと、働けました……っ!」
黒田様は両で顔を覆い、テーブルに突っ伏して泣いた。 声をげて、ずっと胸の奥に仕い込んできた涙を、すべて吐きすように泣きじゃくった。
父は、そんな黒田様の丸まった背を、議そうな顔で見つめていた。 そして、骨張ったをゆっくりと伸ばした。
テーブルを越えて、震える黒田様の拳のに、父の枯れのようなのひらが、そっとねられた。
ポン、と優しく叩く。
「そりゃ、よかった」
父は穏やかに微笑んだ。
「ちゃんと働けたなら、それが番だ」
それだけだった。 父のからた言葉は、たったそれだけだった。
奇跡のような記憶のフラッシュバックは、そこで静かに幕を閉じた。 次の瞬には、父の瞳はまた所なさげなへと戻り、「美、お茶をもう杯もらおうかね」
と私を見げていた。
黒田様は顔をげ、涙とでぐしゃぐしゃになった顔のまま、ポケットから財布を取りした。
分い札束ではない。 銭入れから丁寧に取りされた、百円。 百円玉が枚、百円玉が枚。 当のメニュー通りの代が、プラスチックの会計トレイのに、カチャリと置かれた。
黒田様はちがり、子を引いて、父に向かって々と、度の礼を捧げた。
「……ごちそうさまでした」
、浅の裏で言いそびれた、最の言。 父に届いたのかどうかは、分からない。 けれど、父は湯呑みを両で包み込みながら、満そうに目を細めて頷いていた。
帰り際、由紀に付き添われて着を着ようとした父が、ふとち止まった。 私の制の袖を、細い指先でぎゅっと引っ張る。
くにいた井さんに向かって、父は誇らしげに胸を張って言った。
「うちの娘もな、料理の仕事をしてるんだよ。……すげえ頑張りなんだ」
喉の奥が、い塊で塞がれた。 界が涙で滲んで、父の顔が歪む。
「……うん。ってるよ、お父さん。ちゃんと、ってるから」
私は父のを握りしめ、溢れる涙を拭おうともせずに笑った。
奇跡ののも、現実は何つ魔法のように消えってはくれなかった。
父の認症が治ることはなく、相変わらず昨のことは忘れ、々私の名も見失う。
夜に目が覚めて台所へ向かいそうになるもあれば、着替えの途でぼんやりとち尽くすもある。