"「毎日そんなに持ち帰るのか」厳しい常連客が父を見て泣き崩れた" 第9話
誰の施しにも頼らない。 父を売るような真似は、がひっくり返っても絶対にしない。 そのたい決だけが、の気ので私の体を支えていた。
に戻ったのは、夕方の5を回った頃だった。 だが、昼の来事は、父の壊れかけた脳に予以の混乱をもたらしていたらしい。
夜の8を過ぎたあたりから、父の様子が変した。
「おい、仕込みはどうなってる」
居を刻みな取りでったり来たりしながら、何度も独り言を呟く。
「もうすぐのだぞ。子、タマネギは刻んだのか? 寸胴の加減を見ろって言っただろうが!」
「お父さん、もう夜だよ。は、今はお休みなの」
私がどれだけ宥めても、父のには届かない。 瞳孔がき、呼吸が荒くなっている。 文化館で写真を見たこと、そして黒田様という激しいをぶつけてきたに触れたことで、記憶のパンドラの箱が無理やりこじけられてしまったのだ。
「嘘を言うな! 表に板をさなきゃならねえんだ!」
父は玄関へ向かい、鍵の掛かった引き戸をガタガタと激しく揺すった。 細い腕のどこにそんな力があるのかとうほど、必の形相だった。
「けろ! あいつが来ちまう! 腹を空かせて、待ってるんだよ!」
「お父さん、やめて! 所迷惑になっちゃうから!」
私はろから父の腰にしがみつき、必で引き剥がそうとした。
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78歳の老の体は驚くほど骨張っていて、のからでも肋骨の形が分かる。 だが、その力は狂気じみていた。
揉みいになり、して玄関のに倒れ込んだ。 たいコンクリートの触が、膝を打する。
「う……あぁ……」
父がに蹲り、を抱えて唸り声をげた。 その目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちていた。
「作らなきゃならねえんだ……俺が作らなきゃ……あいつが、んじまう……」
何が現実で、何が過なのか。 完全に混濁した暗ので、父はのあの夜を、たったで彷徨っていた。 誰も救えない。 私にも、あの富豪の黒田様にも、この暗から父を連れ戻すことはできないのだ。
全の力が抜けていくような無力に襲われながら、私はに座り込み、父のさくなった背を抱きしめた。
「丈夫だから……丈夫だからね、お父さん」
子供をあやすように、何度も、何度も背を叩いた。 喉の奥が引き裂かれるように痛かった。 泣き疲れた父が、ようやくのように眠りに落ちたのは、夜の1を回った頃だった。
父を布団に寝かせ、荒れた居に戻った。 膝の打撲痕が、ズキズキとを持って痛む。
台所のやかんからちる湯気をぼんやりと見つめながら、私は壁際にある茶箪笥の最段に目を向けた。
観音きの戸の奥。 古い聞に包まれ、何もの、誰にも触れられることのなかった古い缶がある。
父が絶対に触らせなかった、菓子の空き缶。 子供の頃、いたずらでを伸ばして、烈の如くられた記憶がある。 『これは俺の命だ。おたちが触るもんじゃない』と。
私は吸い寄せられるように、茶箪笥のに膝をついた。 埃をかぶったい缶を引きし、居の畳のに置く。
錆びついたブリキの蓋をけると、ツンとした古いの匂いと、微かなタバコのヤニの匂いがちった。
に入っていたのは、数冊のノートと、何枚もの領収の束だった。
番にあったのは、表の端がボロボロに擦り切れた学ノート。 にとり、ページをめくる。 鉛と青インクでかれた、荒々しい父の文字。
々の売。 肉の仕入れ値。 野菜の相。
そして、ノートのほどに、付箋が貼られたページがあった。
ページをいた瞬、私の指先が凍りついた。
『ツケ帳』
そこには、昭の終わりの付とともに、いくつかの名が並んでいた。 その最段に、太い青インクで、はっきりとその名が刻まれていた。
『黒田修』
付、額、そしてその横に、几帳面な文字で『本、全額受領』とかれ、父の認印が力く押されていた。
黒田様の言っていたことは、言句、真実だったのだ。
父は、本当にあの若者を救った。 そして、返されたを受け取った印を押し、それでこの件を完全に完結させていた。
誰かに誇ることもなく、恩に着せることもなく、ただの常の業務記録のように、淡々と。