"「お母さんのところに行きたい」9年後に届いた娘の声" 第11話
厨から顔をげると、ガラス戸の向こうに結がっていた。 神保町で会ったのようないスーツ姿ではなく、淡いベージュのニットにデニム、スニーカーという、相応の飾らない装だった。
しだけ緊張した面持ちで、のを見回している。
「……いらっしゃい」
エプロンでを拭きながら声をかけると、結はし恥ずかしそうに元を緩めた。
「……こんにちは。お母さん」
自然に零れたその呼び名に、胸の奥がじんわりとくなった。
「どうぞ、入って。狭いだけど」
結は掛けのさなテーブル席に腰をろした。 内に漂う醤油と油、そして汁のりを、胸いっぱいに吸い込んでいる。
「いい匂い。……お母さんの匂いがする」
「そう? 油臭くてごめんね」
「ううん。懐かしい」
結の線が、厨の壁に留まった。 油煙でし黄ばんだ、枚の古い写真。 学の頃の結が、庭の芝ので、きなお弁当箱を膝に乗せて笑っている写真だった。
「……これ、まだ貼ってあるんだ」
結が驚いたように目を丸くした。
「学のの、運会のお弁当でしょう? タコさんウインナーと、甘い卵焼きと、唐揚げ」
「覚えてるの?」
「覚えてるよ。あの、結が言ったの。 『世界で番美しいお弁当だ』って。 嬉しくてね。をすに、お守り代わりに貼ったのよ」
結は写真を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
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その横顔は、神保町の喫茶で見たよりもずっと柔らかく、けれどどこか寂しげだった。
「……お母さん」
「ん?」
「あのね……すごく図々しいお願いなんだけど」
結は照れくさそうに線を落とし、指先をもじもじとかした。
「お昼、まだべてなくて。 ……あのお弁当の、作ってもらえないかな」
臓が、きくねた。
「もちろん! すぐ作るから、ちょっと待ってて!」
私はエプロンを締め直し、厨のガス台に向かった。
フライパンにをつける。 、毎毎握り続けてきた卵焼き用の鍋に、油を馴染ませる。
卵をつ割り入れ、汁と、しめの砂糖、そして隠しの醤油を垂らす。 箸先でリズミカルに溶きほぐし、した鍋に流し込む。 ジュワッという音とともに、甘いりが厨いっぱいにちる。
結が好きだった、し焦げ目のついた甘い卵焼き。 赤いウインナーのに包丁を入れ、油で炒めてタコさんの形にする。 をつけておいた鶏肉に片栗をまぶし、カリッと度揚げする。
が、勝にいた。 の空などなかったかのように、歳までの結に作っていたの覚が、指先に蘇っていた。
プラスチックの弁当箱ではなく、で使っているい皿に、温かいご飯を盛る。 黒ごまを振り、真んに梅を乗せた。 来ての卵焼きと、タコさんウインナー、々の唐揚げを添える。
「はい、お待たせ。めないうちにべて」
湯気のつ皿を、結のに置いた。
結は目を見張り、皿のの料理をじっと見つめた。 箸をに取り、両をわせる。
「……いただきます」
震えるで、まずは黄い卵焼きをひと切れ、に運んだ。
モグモグとをかした瞬、結のきが止まった。 箸を持ったが、ピタリと止まる。
「……結?」
ポタ、と皿の端に滴が落ちた。 つ、またつ。
結のきな瞳から、止めどなく涙が零れ落ちていた。
「……甘い」
結は喉を詰まらせながら、掠れた声で言った。
「すごく、甘くて……お母さんの、だ」
「にわなかった?」
「ううん……美しい。ずっと、このをいせなくて……。 お父さんの作るご飯は、いつも惣菜か、で……。 私、お母さんのご飯のを忘れるのが、番怖かったの……」
結は目の卵焼きをに押し込み、次には唐揚げをかじった。 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必に噛み締めている。
「お母さん」
結は箸を置き、テーブルに両をついて、嗚咽を漏らした。
「私ね……ずっと、寂しかった」
歳の娘が、胸の奥底に溜め込んできた毒を、すべて吐きすように泣き叫んだ。
「お父さんに気を遣って、いい子にしてなきゃ捨てられるとって……。 学にくも、就職するも、全部お父さんの嫌を損ねないように選んで……。 私、ずっとだった。
お母さんがいない世界で、どうやってきていけばいいのか、全然分からなかったの……!」