みかん小説
本棚

"顔合わせの個室で、相手の母親は私の過去に怯えていた" 第1話

カチリ、と。

塗りの箸置きに箸が当たる、直したさな音が個に響いた。

運ばれてきたばかりの鮎の塩焼きには、まだ湯気がっている。 けれど、そのの空気は瞬にして零度までえ切っていた。

掘りごたつので、の指先からじわじわと体温が奪われていくのがわかる。

私の正面に座る女性――黒田玲子さんは、仕ての良さそうな辻がの訪問着の袖をえ、品を作るように唇の端をつりげた。

「それで、青さん。……梨さんのお父様は、どちらのどなたなんです?」

喉の奥が、からりと乾いた。

隣に座る娘・梨が、膝ので握りしめた拳をかすかに震わせた気配が伝わってくる。

「くなられたわけではないのでしょう? 先ほど、婚歴はないとおっしゃいましたし」

「ええ。籍を入れたことはありません」

私は努めて平静に、声のトーンを定に保って答えた。

「ひとりで育ててまいりました。梨がになるまで、何ひとつ恥じることなく暮らしてきたつもりです」

「恥じるだなんて、そんなこと申しげていませんわ」

玲子さんはふふ、と喉を鳴らして笑った。 だが、その目は笑っていない。 テーブルのを滑るように私を観察する瞳の奥に、ぞっとするほど酷で、執拗なが宿っている。

「ただね、直は黒田の男ですし、弁護士です。親戚や取引先のというものがありますでしょう? どこの馬の骨かも分からない……失礼、柄も分からない方と、親戚付きいをするわけにはいきませんから」

広告

「母さん!」

斜め向かいに座る直さんが、耐えかねたように声を荒らげた。 額にい脂汗が浮いている。

「今はそういう話をするじゃないって、のでも言っただろう。梨さんのお母さんに失礼すぎるよ」

「失礼? 族になるなら、っておくべき当然の権利よ。あなただって弁護士なら、元調査の性くらい分かるでしょう?」

玲子さんは息子の抗議を羽虫のように払い落とすと、今度は梨へとたい線を向けた。

「梨さんも、検察庁にお勤めならごじのはずよね。曖昧な素性をそのままにしておくことが、どれほど信用に関わるか。父親の名も言えないような庭から、黒田に嫁ぐおつもりなの?」

梨がすっと顔をげた。 29歳。司法試験を突破し、々い事件と向きっている娘の瞳には、怯えのなど微もなかった。

「私は、母のを詮索されるいわれはありません」

静かで、よく通る声だった。

「私の仕事や性を見ていただくなら分かります。けれど、母のプライベートを暴くことが結婚の条件だというのなら、このお話自体をお受けするわけにはいきません」

「あら、ずいぶん気のいこと」

「やめなさい、玲子」

それまで黙って盃を傾けていた直さんの父・正彦さんが、初めてくい声で妻を制した。 医療器販売会社の代表取締役を務めているというその横顔には、どこか拭いれない疲労が滲んでいる。

「今のところは、事を楽しめばいい」

「あなたまで何を言っているんですか。会社の板にを塗るかもしれないのですよ」

玲子さんは夫の言葉にもを貸さず、あざ笑うように私を正面から見据えた。 そして、誰も予していなかった言を、滑らかににした。

「それにね、青さん。の会社の懐事を嗅ぎ回るようなお仕事をしてきたなら、類枚、素性ひとつ隠すことがどれほど誠実か、にしみて分かっていらっしゃるはずでしょう?」

……は?

私の臓が、ドクンと嫌な音をててねた。

の会社の、懐事? 私の仕事?

私は確かに、横浜の関内で個でさな会計事務所を営み、企業の記帳代や経営資料の作成を請け負っている。 けれど、今この席で、私の過の具体な業務内容について話した覚えは切ない。 直さんにも、ただ「個で帳簿の理や事務代をしている」としか伝えていなかったはずだ。

なぜ、このはそんな言い方をするのか。

背筋をたい針でなぞられたような悪寒がる。 玲子さんの瞳の奥底に、私をただ見しているだけではない、奇妙な焦燥と悪の混ざりったが見えた。

息が詰まるような沈黙が、個の空気を押し潰す。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: