"台所の生贄、義母の黒革手帳" 第10話
グースネックの美しいアーチを描く栓のレバーを引くと、内蔵された浄器を通した清らかなが、サラサラとよい音をてて流れ落ちる。 広いステンレスのシンクには、先ほどまで使っていたステンレスのボウルと、さなまな板がつあるだけだ。茶く酸化した油の跡も、垢も、乾きかけた米粒のこびりつきも、どこにもない。排のゴミ受けまでピカピカに磨きげられ、柑橘系の洗剤の清々しいりが微かに漂っていた。
ここは、誰かの理尽な怠惰や、見えない悪の犠牲のに成りつ所ではなかった。 朝になれば温かいスープの湯気がちり、夕方になればへの活力をみす匂いが満ちる。私と息子の翼が、自分たちのかけがえのない命を健やかに育み、ささやかで確かな幸せを確かめうための、誰にも侵されないおしいだった。
コンロにを点け、したフライパンにく油を引く。をつけておいた鶏もも肉を皮目から滑り込ませると、ジュワッという気よい音が内に響き渡った。 続いて投入したのは、乱切りにした茄子、鮮やかな赤と黄のパプリカ、輪切りのズッキーニだ。で気に煽ると、彩り豊かな野菜が鶏肉から染みた質な脂を吸い、つやつやとした輝きを帯びていく。
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仕げに、醤油、みりん、ほんのしの黒酢とすりおろし姜をわせたわせ調料を回し入れた。 ジュウッと激しい蒸気がちり、焦げた醤油のばしい匂いがふわりとリビング全体に広がっていく。
「わあ、すっごくいい匂い! ママ、お腹すいたー!」
リビングテーブルで宿題のドリルをいていた翼が、鉛を置いて勢いよく顔をげた。 「よし、ちょうどできたところよ。運ぶの伝ってくれる?」 「うん、僕やる!」
弾むような音をてて駆け寄ってきた翼が、さなで丁寧に箸とガラスのコップを組、ダイニングテーブルへと並べ始める。かつてはいつもの顔を窺い、どこか縮こまるようにしていた息子が、今では背筋をまっすぐに伸ばし、屈託のない笑顔を見せてくれる。その姿を見るだけで、あのときした決断が決して違っていなかったと、胸の奥がくなる。
皿に盛り付けた彩り豊かな炒め物と、炊きたてのご飯、豆腐と茗荷のお噌汁、そしてガラスの鉢に盛ったきゅうりの浅漬け。の卓には分すぎるほどのご馳が、綺麗に並んだ。
「よし、揃ったね。座ろうか」 「うん!」 並んで子を引き、をわせる。 「「いただきます!」」
翼の元気な声が、遮るもののない部いっぱいにく響き渡った。
私はまず、鉢に箸を伸ばし、く切ったきゅうりの浅漬けを切れ、に運んだ。
――パリリ。 気よい、澄んだ音が腔に響いた。 たく引き締まった果肉から、瑞々しい分と、昆布だしの柔らかな塩気、微かな葉のりが弾け、喉の奥へとすっきりと通り抜けていく。
その瞬、に脳裏をよぎったものがあった。
あのの、あの暗く淀んだ義実の台所の景だ。 エアコンのも届かず、湿気と温かい気が充満していたあの空。 シンクには何分もの油まみれの皿や茶碗が格好な塔のように積みなり、華鍋の底にはえてく固まった脂がへばりついていた。そして、傷だらけの古いまな板のには、誰かが途で放りしたきゅうりの輪切りが、切りから青臭い分を垂れ流したまま、無残に萎びて転がっていたのだ。
襖の向こうの座敷では、涼しいクーラーのに当たりながら、義父母と義姉、そして夫だった達也が、楽しげに笑いながら酒を酌み交わしていた。 「たまには実でのんびり羽を伸ばすのもいいな」 そんな夫の無邪気な言葉の裏で、私は何もち尽くし、たいで荒れたを痛めながら、族という名の檻の底辺で透のように使役されていた。
『来なくていいのよ』という義母の言葉を信じただけで、親孝の烙印を押され、責めてられたあのお盆。 だが、あのまな板のの萎びたきゅうりを見たとき、私の元でたく固まっていた何かが、音をてて々に砕け散ったのだ。