"父親になりたくないなんて、一度も言ってない" 第17話
「でも……もし、いつかそんなが現れたら。今度は最初から、ちゃんと自分のさもも、全部さらけして向きおうとうよ。『いつか変わってくれるだろう』なんて甘えた期待は、度としない」
夫は線を戻し、私をまっすぐに見つめた。
「奈美は?」
「私も」 私は涙を拭い、さく笑った。
「もし、もう度誰かと暮らすことがあるなら……そのは、自分のき方を絶対に曲げない。そして、相のき方も絶対に奪わない。……そうじゃなきゃ、悠介と別れたがないから」
夫はく、満そうに頷いた。
インターホンが鳴った。 産が到着した図だった。
夫が玄関へ向かい、ドアをける。 私たちは担当者に鍵の束を渡し、最終確認の類にサインをした。 「い、切に使っていただきありがとうございました」とをげる担当者に見送られ、私たちはマンションのエントランスをた。
駅へ向かう。 並んで歩くのは、これが最だった。
改札ので、ち止まる。 の波が、私たちのをすり抜けていく。
「じゃあな、奈美。元気で」
「うん。悠介も、体に気をつけて」
握もしなかった。 抱きうこともしなかった。 ただ、お互いにく礼した。
夫が自改札に定期券をタッチし、向こう側へんでいく。 度も振り返らなかった。 その背は、に私と会った頃よりもずっと逞しく、を向いていた。
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私は、夫の姿が見えなくなるまで、そのにち尽くしていた。 のたいが、私の頬を優しく撫でて通り過ぎていった。
しい部は、横線のさな駅から歩いて分の所にある、築のワンルームだった。
平米にも満たない、暮らし用のさな部。 けれど、向きのきな窓からは、るい差しが差し込んでいた。
連休を使って荷解きを終え、部の隅に、ずっと欲しかった無垢材のワークデスクを置いた。 さなスタンドライトと、座りのいいオフィスチェア。 本棚には、買っておきながら読むのなかった文庫本や、仕事の企画が綺麗に並んでいる。
側のあの部に慮しながら置こうとしていた私の居所が、今、ここにあった。 誰の許もいらない。 誰への申し訳なさもない。 私が私として息をするための、完全な自由なだった。
の半ば、曜の夜。
残業を終えてスーパーで買い物をし、部に戻った。 キッチンにち、分のクリームシチューを作る。 鶏肉と玉ねぎを炒め、ブロッコリーを放り込む。 鍋のでグツグツといスープが煮つよい音が、静かな部に広がっていく。
お気に入りのマグカップにシチューをよそい、窓際のデスクに運んだ。 スプーンをに運ぶ。 クリーミーで、温かくて、しだけ舌が傷しそうになった。
美しい、と声にしてみた。 返事は返ってこない。 けれど、もう寂しくはなかった。 この孤独は、私が自分で選び取り、夫が命がけで譲ってくれた、かけがえのない私のそのものだったから。
デスクのに置いてあったスマートフォンが、く震えた。
画面を見ると、メッセージアプリに通が表示されていた。 表示された名に、指先が瞬止まる。
『悠介』
別れてからヶ、事務連絡以で届いた初めてのメッセージだった。
画面をタップする。
『今、昔よくで通った反町のパンのを通ったよ。奈美が好きだったこしあんのあんぱん、まだ売ってた。ふといしてさ。元気にしてるか?』
それだけの、い文面だった。 写真も、スタンプもついていない。 ただ、初の夜のように、さらりとした言葉。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
責めるも、未練も、悔も、何つ混ざっていなかった。 私たちは確かに別れた。 夫婦という形は壊れてしまった。 けれど、ので確かにした「お互いをいっていた」まで、消えてなくなったわけではないのだ。
私は画面に指を滑らせ、返信を打った。
『覚えてるよ。あのパン、夕方になるといつも売り切れちゃうんだよね。悠介、いつも最のつを私に譲ってくれてた。……元気にしてるよ。仕事も順調。
悠介も、ちゃんとご飯べてね』
送信ボタンを押すと、メッセージはすぐに相の画面へんでいった。
既読がつき、それ以、返信は来なかった。 それで分だった。 もう言葉をねる必はなかった。
スマートフォンをデスクのに伏せ、私はシチューの最のをみ干した。 窓のからは、くをる横線のの音が、ガタゴトと規則正しく響いてくる。
私たちは、違っていなかった。 夫が父親になりたかったことも、私が子どものいないをきたかったことも。 どちらも本物で、どちらも譲れないほど切だったからこそ、私たちは別れるしかなかったのだ。
していたから、緒にいた。 そして、していたからこそ、お互いのを返した。
夜がカーテンを微かに揺らした。 しい机のの本をく。 のかりが、私のしい未来を、静かに照らししていた。
夫は父親になりたかった。 私は、私のままでいたかった。 私たちはしうことを諦めたわけじゃない。 ただ、お互いの悔をの証にするのを、ようやくやめたのだ。