"父親になりたくないなんて、一度も言ってない" 第14話
『引き止めるなら今だ』と、の奥で何かが叫んでいた。 夫の袖を掴んで、「かないで」「私が産むから、ここにいて」と叫べば、夫はち止まってくれるのではないか。 そんな卑怯な衝が、喉元までせりがってきた。
けれど、私のは歩もかなかった。 子どもの顔を見るたびに胸を引き裂かれる夫の痛みを、これ以、私の都で引き延ばすことなんてできなかった。
夫がちがり、振り返った。
「奈美」
「……何?」
「体、気をつけてな。仕事、あんまり無理するなよ。ご飯、ちゃんとべるんだぞ」
どこまでも、優しいだった。 をていく瞬まで、自分のことではなく、私の体調を配している。 その底なしの優しさに、界が滲んで歪んだ。
「悠介もね。……邪、引かないでね」
「うん」
夫はさく頷き、ドアノブにをかけた。 ガチャリとい属音がして、たい気が玄関に流れ込んでくる。
夫は度だけち止まり、私の顔をじっと見つめた。 その瞳には、言葉にならない無数のが渦巻いていた。 けれど、夫は何も言わず、ただ静かに礼した。
ドアが閉まった。
カチャリ、と鍵が自で落ちる音がした。 エレベーターが作するい振が、壁を通して元に伝わってくる。 やがて、その振も消え、マンションの廊は完全な静寂に包まれた。
私は、暗い玄関にち尽くしていた。
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線を、ゆっくりと元に落とす。
そこには、さっきまで並んでいた夫の革靴が、もうなかった。
の片隅に、私のスニーカーがだけ、ぽつんと残されていた。
たったそれだけの景だった。 靴が消えただけ。 なのに、このから体温という体温が、すべて根こそぎ奪いられたような寒気がいがってきた。
静まり返った平米の空。 側の部のドアは閉まったまま、リビングの計の針だけが、無慈にを刻んでいる。
私たちは、れた。 もう、どちらのせいにすることもできない。 私はで、この空っぽの部で、ヶという果てしないの底へ沈んでいくのだ。
震える指先で玄関の壁にをついた瞬、私はまれて初めて、自分自ので未来を失ったのだとった。
ヶの別居期がける、の最初の曜だった。
たいが吹き抜ける、横浜港の赤レンガ倉庫にいカフェのテラス席。 まだ肌寒さの残る午の差しが、製のテーブルのにいを落としていた。
約束の分、私はすでに席に着いていた。 運ばれてきたホットアールグレイの湯気を指先で温めながら、港をき交う観を眺めていた。
このヶ、私はあの平米の部でで暮らした。
最初の数週は、部の広さに押し潰されそうだった。
スーパーで分の材を買うことにも慣れず、曜の夜になると、誰の声もしないリビングでち尽くした。 夫がいない活は、像していたよりもずっと寂しかった。
けれど、ヶが過ぎた頃、ふと気づいたことがあった。
休に所の公園を散歩していて、ベビーカーを押す夫婦とすれ違っても、私の胃がきりきりと痛むことはなくなっていた。 テレビで育児休業の特集が流れても、咄嗟にチャンネルを変える必はなかった。 誰かの顔を窺い、「私はこのを幸にしているのではないか」と怯える夜は、もうどこにもなかった。
私は、息を吹き返していた。 夫のいない静寂ので、私はようやく、自分自の輪郭を取り戻していた。
「……奈美。待たせてごめん」
聞き慣れた声に、顔をげた。
ネイビーのスプリングコートを着た夫が、っていた。 し痩せたようにも見えたけれど、目元の隈は消え、表には穏やかなが戻っていた。 あの、野から帰ってきたのような痛々しい張り詰めた空気は、もうどこにもない。
「ううん、今来たとこ。座って」
夫は向かいの子を静かに引き、コートを脱いだ。 員が置いたメニューにはほとんど目もくれず、「ホットコーヒーを」とく頼んだ。
で向かいって座る。 かつては当たりだった景。 それなのに、テーブルのに置かれた夫のを見ても、もう触れたいとはわなかった。
たい拒絶ではなく、お互いの境界線が綺麗に引き直されたような、澄んだ距だった。