"父親になりたくないなんて、一度も言ってない" 第10話
引き止める権利なんて、今の私にはどこにも残されていなかった。
夫は「ありがとう」とく呟き、カメラケースのファスナーを引いた。 ジーッという無質な属音が、私たちの関係に引かれた本の境界線のように、静まり返ったリビングに響き渡った。
夫が野へ向かった曜の朝、玄関のドアが閉まる音は、驚くほど静かだった。
「じゃあ、ってくる」 「うん、気をつけて」
それだけの会話だった。 夫がキャリーケースを引いてエレベーターホールへ消えていく背を、私はただ見送った。
きりになった平米の部は、信じられないほど広かった。 計の秒針の音が、リビングの隅々にまで反響する。
初は、奇妙な解放があった。 誰の好みにわせることもなく、夕飯はコンビニのサラダとスープだけで済ませた。 テレビもつけず、好きなにシャワーを浴びて、ベッドに入った。 夫に気を遣うことも、夫の曇った横顔を盗み見て胸を痛めることもない夜。
――これでよかったんだ。 そう自分に言い聞かせた。 し距を置けば、お互いにがえて、また以の平穏に戻れるはずだと。
けれど、目の夜から、その静寂は徐々に息苦しさに変わっていった。
洗濯を回しても、干す類が半分しかない。 洗面台の歯ブラシてには、私の歯ブラシだけが本、所なさげにっている。
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側の点畳の部のにつと、扉の隙からたい空気が漏れてくるような気がして、触れることすらできなかった。
目の午。 私はスマートフォンの画面を見つめたまま、ソファからけなくなっていた。
メッセージアプリをき、夫のトーク画面を表示する。 最に届いたのは、曜の昼過ぎの「無事、松本に着いたよ」というい通だけ。
『今、どこにいるの?』 『葉、綺麗だった?』
指がキーボードので止まる。 打っては消し、打っては消した。 夫を監しているようにわれるのが怖かった。 何より、「で考えたい」と言っててった夫の領域に、で踏み込むような気がして送信ボタンを押せなかった。
スマートフォンを握りしめたまま、喉の奥が乾いていく。 夫がいないこの部で、私は体、何を守ろうとしているのだろう。
気が狂いそうになり、私はをびした。
桜町の駅ビルにあるカフェの窓際。 たいがガラスを打ちつけていた。
「……で、野にかせたんだ」
ホットカフェラテのカップを両で包みながら、真紀が言った。 歳の息子は、今はお父さんと留守番なのだという。 母親の顔をしだけ脱ぎ捨てた真紀の瞳は、昔から変わらず、鋭く私を見透かしていた。
「うん。で、これからのを考えたいって」 私はめかけた茶の面を見つめながら、絞りすように答えた。
「私、ずっと夫を縛ってたのかな。子どもを産まないって決めたのは私なのに、夫にも同じ選択をして……夫のを、私が全部奪っちゃったのかな」
涙がこぼれそうになるのを、奥歯を噛みしめて耐えた。 誰かに「そんなことないよ」「奈美は悪くないよ」と言ってほしかった。 自分の正しさを、誰かに保証してほしかったのだ。
けれど、真紀は易な慰めの言葉をにしなかった。 テーブルののペーパーナプキンを指先で折りながら、静かに、けれど芯のある声で問いかけてきた。
「奈美。……つだけ、悪なこと聞いていい?」
「……何?」
「奈美はさ、夫が『子どもは諦める』って言った、本当はどうってたの?」
「どうって……ホッとしたよ。やっと分かってくれたって」
「それだけ?」 真紀の目が、まっすぐに私を捉えた。
「本当に、『諦めてくれてよかった』だけで終わってた? ……のどこかでさ、『夫も自分と同じように、子どもなんていらないとってくれればいいのに』って、そうってなかった?」
臓が、ドクンと嫌なね方をした。 息が詰まり、指先が凍りつくようにたくなった。
「それは……」
「奈美の夫って、本当に優しいじゃない。奈美のき方を尊して、自分からを引いてくれた」 真紀はカップをソーサーに戻した。カチャリとさな陶器の音が響く。
「でも奈美は、夫に『』してほしかったわけじゃないでしょ。
夫自がから納得して、『子どもがいなくても奈美とのが番幸せだ』って、自分の志で言ってほしかったんじゃないの?」