"遺体の上で眠り続けた十四年" 第10話
襖はすべて取り払われ、畳は枚残らず撤されていた。 かつて部の央に敷かれていた、ウイスキーで黒ずんでいたあの畳のあった所――そこには、荒の杉板がノコギリとバールで無残に引き剥がされ、暗いのが、巨な方形の穴となってわになっていた。 鑑識作業のために焚かれた力な照の跡、嚢袋を運びした擦れた跡、そしてに散乱していた消のいが、黒いの肌に痛々しくこびりついている。 由里は、その穴の縁に、ゆっくりと歩み寄った。
そこが――神崎怜奈が、たいビニールシートに包まれ、のみに耐えながら横たわっていた所だった。 さはメートルにも満たない、浅いの窪み。 そのわずか数センチ真に板が渡され、畳が敷かれ、そしてその真の井を隔てた階の部で、自分は夫と並んで毎夜眠っていたのだ。 由里は穴のに正座し、抱えていたい百の束を、たい板のにそっと置いた。
議なことに――あの敷を支配し続けていた、あの息の詰まるような苦しい空気は、完全に消えっていた。 染み付いていたはずの埃の匂いも、腐敗したウイスキーの酸を極める悪臭も、まるでだったかのように失われていた。 代わりに部を満たしていたのは、剥きしになった黒の素朴な匂いと、由里が向けた百のの、どこまでも澄んだ甘いりだった。
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「……怜奈さん」
由里は、暗いの窪みを見つめながら、静かに語りかけた。 声が震え、喉の奥からいものが込みげてくる。
「ごめんなさい……。本当に、ごめんなさい……」
粒の涙が瞳から溢れし、膝ののスカートに丸い染みを作った。
「私は何もらなかった……。あなたがこのたいので、どれほどの無を抱えて眠っていたのかもらずに……私はこので、あの男の妻として、も暮らしてしまっていました……」
言葉を紡ぐたびに、胸の奥底に溜まっていたが、涙となって溢れた。 だが、それはもはや、かつてのような恐怖や自己憐憫の涙ではなかった。 同じの女性として、同じ男の酷な狂気にを奪われ、踏みにじられた者同士としての、魂の底からの慟哭だった。
「あなたが遺してくれたあの指輪が……あのい輝きが、すべてを終わらせてくれたんですね。……あなたは、あんな男に殺されても、決して屈していなかった。、ずっと戦い続けていたんですね」
怜奈は、ので朽ち果てながらも、自らの薬指に嵌められたダイヤの輝きを失わなかった。 そして、の基礎が傾き、管が破裂し、あの畳がめくられるその瞬を、じっと待ち続けていたのだ。 自分がこの悪から解放されるために。そして、あの男の化けの皮を剥ぎ取り、法の裁きを受けさせるために。
「ありがとう、怜奈さん……。私を、あの嘘で塗り固められた獄から救いしてくれて……本当に、ありがとう……」
由里は両を畳の敷居につき、暗い穴に向かって、々とをげた。 額が肌に触れ、たさが識を研ぎ澄ましていく。 彼女はので、怜奈の魂がらかにへと昇っていくことを、ただに祈り続けた。もう度と、たいのみにも、狂気のウイスキーのにも脅かされることのない、に満ちた世界へと還っていけるようにと。
どれほどのが流れただろうか。 ふと、部の奥から、柔らかな気配がちった。
サァッ……と、よいが吹き抜けた。 それは、庭の松林を揺らし、け放たれた窓からへと滑り込んできただった。 の終わりを告げる、微かに相模湾の潮のりを孕んだ、あたたかなの息吹。 そのは、板のに置かれたい百の弁を優しく震わせ、そして、正座して涙を流す由里の頬を、まるで誰かの柔らかな掌のように、そっと撫でて通り抜けていった。 たさは微もなかった。 そこにあったのは、すべてを許し、すべてを解き放った者が渡してくれるような、慈に満ちた温もりだった。
由里は息を呑み、ゆっくりと顔をげた。 誰もいない畳。の穴には、斜めに差し込んできた午の陽が、のの帯となってり注いでいた。