"結婚記念日に渡された電車の片道切符" 第10話
「由美!」
振り返ると、コートの襟をてた直が、息を切らしてっていた。
目のは黒く窪み、顎には剃り残した無精髭がく混ざっている。
かつて私がアイロンをかけていたワイシャツは、襟元がくしゃりと折れ曲がっていた。
「……最に、飯でもわないか」
夫のからたのは、いがけない言葉だった。
「の、あそこだよ。15、俺たちが付きい始めた頃によくった、裏の。あそこなら、すぐくだろ」
断る理由はいくらでもあった。
けれど、私ので何かが、この男とのを本当ので終わらせる儀式を求めていた。
「……お昼をべるだけなら」
さな雑居ビルのにあるそのは、15とほとんど変わっていなかった。
暗い内に、使い込まれた飴ののテーブル。
厨から漂ってくる、し焦げたようなデミグラスソースのばしい匂い。
あの頃の直は、まだ営業の平社員で、を恥ずかしそうに笑いながら、「いつか由美に美いものを腹いっぱいわせてやるからな」と、ハンバーグを半分私の皿に分けてくれるようなだった。
テーブルに置かれたのは、鉄板のでジュウジュウと音をてるハンバーグステーキ。
直はナイフとフォークを持ったまま、もをつけようとしなかった。
「……悪かった」
夫はポツリと呟いた。
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「になって、洗濯も掃除も、飯の用も……何つまともにできなくてさ。部はゴミだらけだし、ワイシャツのボタンが取れても付けられない。俺、おがいてくれたから、らしい活ができてたんだな」
私は何も言わず、フォークでハンバーグをさく切り、に運んだ。
昔と変わらない、し酸のい懐かしいがした。
「莉奈のことも、どうかしてたんだ。若い女にチヤホヤされて、自分がまだ男として通用するって錯覚して……。由美、もう度やり直せないか。美咲と3で、またあので暮らしたいんだ」
直はコートのポケットから、古びたさな箱を取りした。
に入っていたのは、15にふたりで買った、数万円のシンプルなシルバーの指輪だった。
結婚指輪を買い換える余裕がなかった頃、お揃いで買ったものだ。
私の胸の奥で、微かな痛みがった。
あの頃の直の笑顔や、ふたりで狭いアパートのベランダから見げた夜空の記憶が、馬灯のようにをかすめる。
全部が嘘だったわけじゃない。
確かに、されていたもあったのだ。
けれど――。
私はナプキンで丁寧に元を拭い、をんだ。
「直」
「……うん?」
夫の瞳に、かすかな期待のが宿る。
「その指輪、箱根にくも、札幌にくも、して引きしの奥に隠してたでしょう?」
直の顔から、すっと血の気が引いた。
「過の綺麗ないを持ちして、今の自分の惨めさを覆い隠そうとしないで」
私はバッグから財布を取りし、千円札を2枚、テーブルのに置いた。
自分のべたハンバーグの代分。きっちり1円単位で計算した額。
「お、これからで……本当にやっていけるのか?」
ちがった私を見げ、直が掠れた声で尋ねた。
その問いかけには、まだのどこかで「自分がいなければきていけない女」であってほしいという、男の浅ましい未練が滲んでいた。
私はコートのボタンを留め、静かに微笑んだ。
「直、私ね、最初からずっとでやってきたのよ」
「……え?」
「15、全部で背負ってきてきたの。ただ、私の目のに、あなたの脱ぎ散らかしたと、洗わなきゃいけない汚れた茶碗が転がっていただけ」
夫は言葉を失い、を半きにしたまま固まった。
「ごちそうさまでした」
私は踵を返し、のい扉を押しけた。
階段をがると、京のにはたい夕暮れのが吹き抜けていた。
私の背を押すように、けれどどこまでも軽やかに。
度も振り返らずに歩き続けた。
半の、3旬。
桜の蕾がほころび始めた頃、娘の美咲は第志望だった都の格通を掴み取った。
「お母さん、受かったよ!!」
格証を胸に抱きしめてびついてきた娘を、私は力いっぱい抱きしめた。
私たちは今、当たりの良い2LDKの賃貸マンションで暮らしている。
具の数はくないが、リビングには常に柔らかなが差し込み、通しがいい。