"26年尽くした家を出る私を、車椅子の娘は無表情で見送った" 第1話
結婚して。 義母が私のために湯呑みにお茶を淹れてくれたのは、それが初めてだった。
「さあ、このに名をいて。分以内に役所へしてきなさい」
ダイニングテーブルのに、乱暴に放りされた枚の緑の用。 ペラペラとしたいが、乾いた音をてて私の目のに滑り込んできた。
婚届。
夫の署名欄には、見慣れた乱雑な跡で、すでに名がき込まれている。 黒いインクの横には、濃い朱肉の跡がくっきりと残っていた。
向かいの席に座る夫は、スマホの画面に線を落としたまま、度も顔をげない。 まるで目ので起きていることが、自分とはまったく無関係の来事であるかのように。
「……分、ですか」
喉の奥が、砂を噛んだように渇いていた。 けれど、声は驚くほど震えなかった。
「そうよ。ぐずぐずしないでさっさときなさい」
義母は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、わざとらしく顎をしゃくった。
「うちの息子もね、もうあんたの顔を見るだけでうんざりだって言ってるの。もお世話してあげたんだから、最くらい潔くを引いたらどうなの?」
、このを支配してきた歳の義母。 血圧だの腰痛だのと騒ぎて、毎朝の血圧測定から薬管理、事の減塩指導に至るまで、私を都の良い無料の政婦兼介護士として使い倒してきただ。
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夫はといえば、義母のその言葉に反論するどころか、聞こえないふりをしてコーヒーを啜っている。
りも、しみも、湧いてこなかった。 胸の奥底で、何かがプツンと音をてて切れただけだった。
「ペン、お借りしますね」
私はバッグから自分の認印を取りし、テーブルののボールペンを握った。 迷いはミリもなかった。 妻の欄に、宮本真理子、と自分の名をき込む。
カチリ、と朱肉の蓋をけるさな音が、静まり返ったリビングに異様なほど瞭に響いた。 自分の名の横に、赤い印を押し込む。
「はい。きました」
緑のを丁寧につ折りにし、ちがる。
義母の顔から、瞬にして得げな笑みが消え失せた。 私が泣き崩れ、夫の元に縋り付いて「考え直して」と懇願する姿を確信していたのだろう。 予のあっけなさに、義母の眉がピクピクと引き攣っている。
私はに背を向け、廊の奥にある自へと向かった。 押し入れの奥から、週からしずつ荷物を詰めておいた型のスーツケースを引きずりす。 着替え、私名義の通帳、帳、そして母の形見の万。 私のの持ち物は、このスーツケースつにすべて収まっていた。
ガラガラとキャスターを鳴らしながら玄関へ戻ると、義母が血相を変えてちはだかった。
狭い廊を塞ぐように、両を広げている。
「な、何よそれ! どこへく気なの!」
「どこへって……婚届にサインをしましたから。てきます」
「誰が今てっていいって言ったのよ!」
義母の甲い切り声が、玄関の壁に反響する。
「私の今夜のご飯はどうするの! の朝の血圧の薬の仕分けは誰がやるのよ! 所のスーパーの特売だってじゃないの!」
……は? 何を言っているのか、本気で理解できなかった。 婚届を突きつけておいて、今夜の飯を作れ?
居から、夫が苛ちを隠そうともせずにのそのそとてきた。
「おい真理子、婚するにしても常識ってもんがあるだろ。の引き継ぎもなしにいきなりてくやつがあるかよ」
「引き継ぎ?」
私は夫の目をまっすぐに見据えた。
「あなたの母親の事の好みも、病院の診察券の所も、あなたは何つ覚えようとしなかった。それを今さら私に説しろと言うんですか?」
「おな……!」
夫が気ばんで歩詰め寄ってきた、そのだった。
キィ、と廊の角から、聞き慣れたゴムタイヤの摩擦音が響いた。
フローリングを滑るようにして現れたのは、自式の子だった。 乗っているのは、娘の彩だった。
歳。 幼期の病気の遺症で肢に麻痺が残り、普段の活では子とスライディングボード、そして部の介助を必としている。
けれど、認も判断力も、私以に晰なの女性だ。