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"捨てられた整備士、沈黙の咆哮" 第29話

……こんな好条件の話、普通の備士じゃ、そうそう転がり込んでくるもんじゃないぞ」

田の顔には、黒いグリスの筋が幾筋もつき、額には汗で濡れた髪が張り付いていた。

彼女は作業の袖でのを擦り、しだけ首を傾げて考え込むような仕をした。

そして――。

田は、ふわりと微笑んだ。

このにやってきてから、彼女が初めて見せた、の底から肩の力の抜けた、無邪気で柔らかな笑顔だった。

「……ここでは、『急げ』って言われませんから」

そのあまりにも屈託のない言葉に、笹本は瞬、喉を詰まらせた。

胸の奥がくなり、目がじわりと滲んだ。

笹本はきく息を吸い込み、わざと鳴るような声を張りげた。

「……バカ野郎! しは急げ!」

田が目をまん丸くして驚いた。

「そのワゴンはな、の朝番でお客さんが取りに来るんだぞ! 今のペースでやってたら、今夜に終わらんだろうが!」

「あ……はいっ! 急ぎます!」

田は慌てふためいて寝板を蹴り、再び体のへと潜り込んでいった。

カチャカチャ、カチャカチャと、輪の奥から響く具の当たる音が、急に慌ただしく、リズミカルに鳴り響き始めた。

笹本は腹の底から、ワハハと声をげて笑った。

自分でも驚くほど、きくて、れやかな笑い声だった。

この油臭いので、こんなに腹の底から笑ったのは、父がきていたあのい青の代以来のことだったかもしれない。

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事務所の壁には、いつのにか枚のさな額縁が飾られていた。

夕暮れの柔らかなのなかで、濃紺の暁2000クーペが、静かに誇らしげに息づいているカラー写真。

榊原善夫が、懇の写真に頼んで撮させ、額に入れて直々に届けてくれたものだった。

その額縁のすぐには、枚の便箋が画鋲で留められていた。

万の力い跡で、榊原の字で、わずかだけが記されていた。

『急いで直すは、この世にいくらでもある。 最まで諦めないは、世界にここしかない』

その写真のすぐ隣には、先代から受け継がれてきた古い名札掛けが、夕暮れのを浴びて静かに並んでいた。

先代の名札の横に、笹本平の名札。

そして、そのすぐ隣の枠には、ヶに笹本がマジックで器用にき殴った、しいい名札が、誇らしげに掲げられていた。

『田美紀』

その文字を見るたびに、笹本は胸の奥が引き締まるのを覚えた。あの文字を彫り込んだの夜の決を、笹本は今でも彼女には言もかしていなかった。

が暮れ、夜の帳が沢町の並みを静かに包み込んでいった。

笹本は作業をて、正面のシャッターを半分だけろすためにの砂利敷きへとた。

の敷には、からの修理を待つたちが、夜に濡れながら静かに佇んでいた。

型セダン、軽トラ、ヴィンテージのスポーツカー。式も、も、形もバラバラで、どこかののどこかので、度は見捨てられ、諦められかけた械たち。

そのどれもが、の朝には、田美紀というの職の、研ぎ澄まされた瞳と指先に晒されることになるのだ。

きっと、また気のくなるようながかかるだろう。

またしても予定通りにはまず、客を待たせることになるかもしれない。

笹本は夜空を見げた。

澄み切った初の空に、瞬くがいくつも輝いていた。

『を雑に扱わない奴だけは、絶対に追い返すな』

あの激しいの朝。

もし、父のあの遺言をいさず、あの角のすり切れた鉄の具箱をたいのに追い返していたとしたら――。

このは、疾うの昔にたいシャッターをろし、更になって消えっていただろう。

そして、田美紀という稀代の備士は、今頃どこかのの片隅で、誰にもその魂の輝きを理解されないまま、再び「使えない」という酷な言葉にを殺されていただろう。

の奥から、カン、カン、という乾いた属の音が、夜に乗って響いてきた。

誰にも急かされることのない、静かな所で。

の備士が、今夜も最の最まで、械の命の淵を見つめ続けている。

笹本は元に微かな笑みを浮かべると、ろしかけたシャッターを勢いよく押しげ、に満ちた自分たちののへと、力く戻っていった。

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