"彼女は毎日母を世話し、毎週夫と夜を過ごす" 第3話
「おじゃ、も持たないんだよ」
悔しくて、歯が折れるほど噛み締めた。 この男にをげたくない。 夫の倫相に縋るなんて、女としての尊厳を完全に捨てることだ。 世の誰もが「そんな女、今すぐ切れ」「慰謝料を請求して婚しろ」と言うだろう。
けれど。 現実の介護の現には、正論なんて滴も通用しない。
目ので衰していく母の命と、の私の仕事。 それを秤にかけたとき、私には、選べるなど初めから残されていなかった。
翌朝、私は奈緒さんの個携帯に話をかけた。
コール音が回鳴って、繋がった。
「……はい、林です」
いつも通りの、柔らかく澄んだ声。 その声を聞いた瞬、全の毛穴から汗が噴きした。
「……です」
沈黙が落ちた。 話の向こうで、微かに息を呑む気配がした。
「美咲さん……あの、私……」
「言い訳はりません」
私はを完全に削ぎ落とした声で、言葉を遮った。
「母が、あなたじゃないとご飯をべません。……今から来てください」
「……え?」
「ただし、条件があります」
私は震える指で、元のメモ用を握りつぶした。
「健司は、今朝をてかせました。度と敷居を跨がせません。あなたも、母の介助が終わったら秒も残らず帰ってください。余計な私語は切禁止です。……これに従えるなら、契約を継続します」
受話器の向こうで、奈緒さんはさく、 「……はい」
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と答えた。
そのの午。 インターホンが鳴った。
玄関のドアスコープを覗くと、いつもの訪問介護の紺のエプロンを抱えた奈緒さんがっていた。 ドアをけると、彼女はく、直角にをげた。
「……申し訳ありませんでした」
伏せられた顔。 化粧気のない肌。綺麗に束ねられた黒髪。 どこからどう見ても、真面目で誠実な介護士にしか見えない。 この女が、夜には夫の腕のにいて、あの部で体をねていた。
殺にいが胸を突きげる。 だが、奥の部から母の呼ぶ声が聞こえた。
「奈緒ちゃん? 奈緒ちゃんなの?」
奈緒さんが顔をげ、私の横を通り過ぎていく。 その瞬、ふわりと漂った。 あの、健司の首元からった、あの甘酸っぱい柑橘系の匂い。
「お母様、遅くなってごめんなさいね。お腹空いたでしょう」
母の部に入っていった奈緒さんの声は、信じられないほど優しかった。 あんなに頑なにを閉ざしていた母が、 「ううん、待ってたのよ」 と、子どものような甘えた声をす。
台所にち、お粥を温める奈緒さんの背を、私はリビングのからじっと見つめていた。
母にスプーンを運び、べるごとに「にみ込めましたね」と微笑みかける。 母の直したを丁寧にマッサージし、清拭用のタオルで背を拭くつきには、迷いも雑さもない。
プロの仕事だった。 非の打ち所がない、完璧な介護だった。
母が穏やかな寝息をて始めたのを見届けて、奈緒さんは台所に戻ってきた。 シンクの角コーナーを片付け、布巾を絞る。
そして、ダイニングテーブルのに、冊のノートを広げた。
『申し送りノート』。
毎の排便の無、事の摂取量、分量、薬状況を記録する、介護の連絡簿だ。
「美咲さん、本の記録です」
奈緒さんは線をわせず、ノートを私の方へ向けた。 几帳面で、丸みのある丁寧な文字。
『分:麦茶 300ml。昼:完。排便あり(普通便)。入浴:浴のみ実施。穏やかに過ごされています』
私は、ノートの端に受領のサインをする。 ペンを持つ私のが、屈辱で刻みに震えていた。
倫相と、毎交わす介護の連絡。 彼女が能であればあるほど。 母が彼女に懐けば懐くほど。 私は、自分の無力さとみじめさを骨の髄までいらされる。
「……終わったなら、く帰ってください」
私がたく言い放つと、奈緒さんは「失礼します」とさくをげ、エプロンを畳んでバッグにしまった。
そのだった。
奈緒さんが、玄関に向かうをふと止めた。 振り返り、私をじっと見つめてきた。
その瞳には、勝ち誇ったなど微もなかった。 むしろ、奇妙な戸惑いと、隠しきれない躊躇いが滲んでいた。
「……美咲さん」
「何ですか。余計な話はしない約束です」
私が睨みつけると、奈緒さんは胸元でバッグをく抱きしめた。 そして、喉の奥から絞りすように、こう言ったのだ。