"九時三十四分の地下鉄、消えた暴行犯" 第3話
っている側が「あ、すみません」と軽くをげ、座っている側が無言でをし引く。それだけで何事もなく散し、秒には当事者双方の記憶から消えるはずの、極めて些細な、取るにらない摩擦に過ぎなかった。 実際、バッグを当ててしまった男性も、すぐに自分が接触したことに気づいたようだった。男は慌てて吊り革を両で握り直して姿勢を正し、恐縮したように眉をげて、元をかした。
「あ、すみま……」
その言葉が、最まで発音されることはなかった。
「――ぁあッ!!」
の声帯から発せられたとは到底えない、破裂音のような絶叫が内を震撼させた。 獣が肉を引き裂かれたにあげる咆哮か、あるいは狂気に憑りつかれた者が魂を吐きすの絶叫。鼓膜を直接針で刺されたような暴力な音圧に、俺の全の毛穴という毛穴が瞬で逆った。
座っていた若い男が、まるで座席のスプリングに弾きばされたかのようにね起きていた。
その顔は、先ほどまでの端正な面を完全に失っていた。 目蓋は限界まで引き裂かれ、血った球が蓋骨からびさんばかりに見かれている。黒目はさく収縮し、焦点は完全に狂気に染まっていた。額から側部にかけて、の太い血管がミミズのように脈打ち、引きつった唇の両端からはい泡が微かに散していた。
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「触ってんじゃねえよおおおッ!!」
言葉というよりは、濃密な殺の塊のような号。 号の残響が内に響き渡るのと、男の腕が唸りをげて振り抜かれたのは、完全に同だった。
ゴッ、というく鈍い破壊音がした。 鍛えげられた若い男の固い拳が、正面にっていた男性のの頬骨を、完璧な軌で撃ち抜いていた。
「ぶ……ッ!?」
男性の顔面が、スローモーションのように横へと歪んだ。 掛けていた縁の鏡が弾けび、宙でを反射しながら通のへと落ちていく。男のから鮮血と唾液がとなって吹きんだ。男性は何が起きたのかを理解するもなく、首の骨が折れ曲がるような衝撃に煽られ、そのに棒ちのまま歩、歩と退した。
だが、それは惨劇の始まりに過ぎなかった。
若い男の脳内では、もはやとしての理性や社会な規範などというものは、原子レベルで消滅していた。ただ「自分の領域を侵された」という原始で異常な被害妄と、制御能な破壊衝だけが、彼の肉体を完全に支配していた。
「ねよ! ねよ! わざと当てただろおッ! 殺すぞクソがぁぁぁッ!」
男は靴底でをく踏み鳴らし、よろめく男性に向かって猛然と突した。 ステップを踏み込むと同に、今度はのストレートが、無防備な被害者の鳩尾を抉るようにめり込んだ。
ドスッ、という、まるで濡れた砂袋を属バットで殴りつけたような々しい音が内に響く。
「う、ぐっ……!」 被害者のから、肺のの空気がすべて絞りされたような掠れた鳴が漏れた。男は両でお腹を押さえ、くの字に体を折り曲げた。
しかし、若い男の攻撃は止まらない。 止まるどころか、相が苦痛に悶え、無抵抗になったことで、男の狂気はさらに沸点を突破していた。男は両腕をのように振り回し、狂ったように拳を連打し始めた。被害者の側部、の裏、首筋、背。狙いを定めることすらなく、ただ相の肉体を破壊し尽くすことだけを目にした、無慈で方な暴力の嵐。
ドカッ、バキッ、ボコッ、と、骨と肉が衝突しう残酷な音が、リズミカルに、そして執拗に内に反響した。
「ぎゃあああああッ!」 「やめて! 誰か!」
内に鳴が連鎖した。 シートに座っていた乗客たちが、まるでを放たれた群衆のように斉にび起き、先にと両の両端へと逃げ惑った。若い女性が顔を両で覆いながら座席のに倒れ込み、老が震えるで吊り革を掴みながらずさりする。のに、被害者のから滴り落ちた赤い鮮血が、点々とび散っていく。被害者の男性はすでにっていることができず、膝から通のへと崩れ落ち、両腕でを抱え込むようにして、丸まった姿勢でただ嵐が過ぎるのを耐えようとしていた。