"九時三十四分の地下鉄、消えた暴行犯" 第2話
男の腔からは、荒くい息が断続に吐きされていた。首筋の太い頚脈が、ドク、ドク、と恐ろしい速度で脈打っているのが、ワイシャツのい襟元越しに見て取れる。両の拳は、組まれた腕の内側でくなるほどく握りしめられており、折、ギシ、と骨が鳴るような微細な痙攣を繰り返していた。
の胸には、まったく同じ匠の社章がっていた。 の枠のに、濃紺のエナメルで抽象な幾何学模様が施された、さなバッジ。同じ組織に属し、同じを共し、おそらくは同じ目へと向かっているはずの。齢から見ても、仕から見ても、グレーのスーツの男が司であり、濃紺の男が部であることはだった。
だが、そこにある力関係は、般な職のそれとは完全に逆転していた。 司であるはずの男は、隣の部が発するただならぬ殺気に圧迫され、体を反対側へしでも縮こまらせようと必だった。折、司は横目で部の様子を窺う。しかし、部の線がわずかでもく気配を察すると、弾かれたように線を自らの膝のへと戻し、唾をみ込んで喉仏を激しくさせた。部に声をかけることなど、到底できないようだった。「丈夫か」と気遣うことも、「を引っ込めろ」と注することもできない。
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猛獣の檻のに放り込まれた物のように、ただ息を潜め、嵐が過ぎるのを祈るような卑屈な沈黙を守り続けていた。
なぜ、この若い男はここまで殺気っているのか。 朝のオフィスで何があったのか。なミスを犯して理尽に叱責されたのか。あるいは、庭や私活で取り返しのつかない破滅な来事があったのか。それとも、この男の精神そのものが、すでに社会な抑制の限界を超えて軋みをげているのか。 男の全から放たれる異様な量は、周囲の数席分の空気をらかに歪ませていた。隣の司だけでなく、男の反対側に座っていた若い女性も、居悪そうに体を縮こまらせ、自然な角度でスマートフォンに顔をづけていた。誰もが男の異常さに気づいていながら、誰もが「気づいていないふり」を装うことで、自らの全を確保しようとしていた。
は、の暗渠を滑るようにんでいた。 線の継ぎ目を越えるたびに、ガタン、ゴトン、と鈍い振がから伝わってくる。その規則正しい振が、かえって内の異常な緊張を際たせていた。
やがて、は緩やかなカーブに差し掛かった。 キー、という障りな属摩擦音が輪からがり、体がわずかに力でへと傾く。吊り革に掴まっている乗客たちの体が斉に同じ方向へ揺れ、吊り革のプラスチックの輪が網棚のパイプに当たってカチカチと乾いた音をてた。
そのだった。
濃紺のスーツの若い男の正面、通を挟んだ吊り革に掴まってっていたの男性客がいた。 齢は代の初め頃だろうか。使い古されたベージュのトレンチコートを腕に抱え、で吊り革を握っていた。着古してのくなったチャコールグレーのスーツ、くたびれた革靴、そして肩からげられた、類でパンパンに膨らんだナイロン製の黒いビジネスバッグ。京のどこにでもいる、絵に描いたような平凡で無力なサラリーマンだった。その顔にはい疲労のが張り付いており、吊り革に全体を預けるようにして、たげな瞼を半分閉じて微んでいた。
カーブによる力が、その男性客の体を襲った。 男はハッとして目をけたが、疲労で弛緩しきっていた元がわずかによろめいた。肩から斜めに掛けていたいビジネスバッグが、力に引っ張られるようにして、男の体の側へときく振り子のように揺れた。
トン。
それは、あまりにもさく、ありふれた音だった。 男性客のビジネスバッグの底の角が、通へ投げされていた若い男のの脛――スラックスの折り目がきっちりとついたその部分に、軽く接触したのだ。
満員において、そんな接触は呼吸をするのと同じくらい常な来事だ。