みかん小説
本棚

"九時三十四分の地下鉄、消えた暴行犯" 第1話

鉄の密閉された空には、特の匂いがある。属が擦れってじる微細な鉄の錆びた匂い、無数のが吸い込み吐きした湿った酸化炭素、のらない特の乾いたコンクリートの、そしてや制汗剤、微かな煙の残りが混沌と入り混じった、あのぬるい沈殿物のような気体だ。

午分。京のくをに貫くその線は、最悪のすし詰め状態――互いの肋骨がきしみい、の背骨の触を自分の胸骨で受け止めざるを得ないような、あの朝の極限の暴力な混雑――を辛うじてやり過ごした直だった。

座席は端から端まで余すところなく埋まり、吊り革はつにつの割で誰かの腕がぶらがっている。っている者たちの隔は、互いの肩が触れわない程度には保たれていた。この帯の内に満ちているのは、堵ではない。ただひたすらに、過酷な通勤ラッシュをき延びたに訪れる底なしの倦怠と、これから始まる果てしない就業への諦だった。

窓のを流れるのは、暗黒のトンネル壁と、等隔に配置された非常灯の黄い残だけだ。レールのを転がる輪の連続した属音が、規則正しいリズムとなって内の静寂を覆い隠していた。誰もをかない。

広告

誰も隣のの顔を見ない。見らぬが物理な至距に密集しながら、互いの精神なを完全に無しうことによってのみ保たれる、都会特の脆く張り詰めた平穏がそこにあった。

俺はその、方向に向かって側の乗ドアの脇、黄い点字ブロックから半歩がった位置の握り棒に、肩を軽く預けてっていた。に持っていたのは、駅の売で買ったばかりの文庫本だった。だが、ページをめくる指先は止まっていた。活字を目で追うことよりも、界の隅に入り込んでくる向かいの座席の異様な空気に、どうしても識を引っ張られていたからだ。

通を挟んだ向かい側、掛けのいモケットシートの央に、そのは座っていた。

は、代の半ばとおぼしき柄な男性だった。 幾にも折り畳まれたようない皺が眉に刻まれ、几帳面に撫でつけられた分けの髪混じりの髪は、え際がやや退している。仕ての良さそうなグレーのスーツを着ているが、その肩幅は狭く、背筋はどこか自信なさげに丸まっていた。膝のには、角の擦り切れた黒い革製のブリーフケースが、定規で測ったように正確に両で抱え込まれている。縁の鏡の奥にある細い瞳は、絶えず落ち着きなくいていた。

膝のの帳をめくっては閉じ、スマートフォンの画面を点灯させては何も操作せずに消灯する。その作のつひとつに、性な胃痛を抱えた管理職特の、神経質な怯えが滲みていた。

そして、そのすぐ隣に座っていたのが、代の半ばから半に見える若い男だった。

のには、物理な隙はほとんどなかった。だが、その距は異常だった。 若い男は、仕てのしい濃紺のスリムスーツにを包んでいた。く刈りげられた襟、清潔のある清潔な横顔、ワックスでえられた髪。顔ちだけを見れば、どこかの商社かIT企業の優秀な若社員として雑誌に載っていてもおかしくない、端正な貌だった。

だが、その男が纏っている空気は、端正さとは真逆の、触れれば指が裂けるような刺々しさに満ちていた。 男はい両を方の通へ、あからさまに投げすようにして伸ばしていた。腕は胸ので固く組まれ、肘の先端が隣の柄な司のの腕に、ほとんど押し付けられるように触れている。だが、男は微も気にする様子がない。それどころか、顎を極端に引き、唇を文字に引き結んだまま、血った両目で空の何もない点を睨みつけていた。

彼の線の先には、広告もなければ、窓もない。

ただ、通を挟んだ空の空虚があるだけだった。 しかし、その男の瞳の奥では、見えない炎が轟々と音をてて燃え盛っているのが、れた位置にいる俺にすら々しくじ取れた。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: