"操縦桿が壊れた旅客機を救った町工場の技術者" 第9話
暴する鉄の塊と最のレバー
ドンッ! という音に続き、体全体が激しい振に包まれた。
輪が滑に叩きつけられ、タイヤがアスファルトを削る凄まじい摩擦音が操縦に響き渡る。
体は猛烈なスピードで、京羽田空港の滑をり始めた。
方の客から、歓声と拍が湧き起こるのがドア越しに聞こえた。
乗客たちは無事に面へ戻って来られたことに涙を流し、互いを抱きしめっているはずだ。
の淵から還した百のびの波。
絵里もまた全の力が抜け、副操縦士のシートにく背を預けた。
助かった。
絶望な夜のではなく、溢れるの滑へ。
私たちはきて帰ってきたのだ。
「やり遂げたのね、佐藤さん」
絵里は荒い息を吐きながら、隣の席に座るさな技術者を見た。
しかし、佐藤の顔に堵の表は全くなかった。
それどころか、彼女の目は血り、両はキーボードとトリムホイールのでさらに激しくいていた。
額から流れる汗が、彼女の分いノートにポタポタと落ちている。
絵里は違を覚えた。
窓のを見る。
滑の脇に並ぶ誘導灯のオレンジのが、線のように繋がってろへ猛烈な勢いで流れていく。
景が流れる速度が全く落ちていない。
いや、エンジン音がさくなったことで切り音とタイヤの擦過音が気に際ち、むしろ加速しているようにさえじられた。
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絵里は計器盤の速度計を見た。
速280キロ。
着陸した瞬から数字がほとんど減っていないのだ。
「どういうこと? スピードが落ちていないわ!」
絵里の叫びに、佐藤はを見据えたまま答えた。
「タイヤの油圧ブレーキが能していません」
佐藤はキーを叩き続ける。
「最初の気系統のショートで、ブレーキをかすためのバルブが完全に閉じたままになっています。自でく空気ブレーキのスポイラーも、気信号が届かず作しません」
絵里の背筋が、瞬で氷のようにたくなった。
ブレーキが全くない。
それはつまり、さ200トンの巨な鉄の塊が、速300キロいスピードでを暴しているということだ。
「この滑のさは3000メートルです」
佐藤の声が、震える内の騒音に負けないようきくなった。
「現の速度と体のさを計算すると、自然な摩擦だけで止まるには万メートル以の距が必です」
万メートル。
絵里は絶句した。
滑の先には、ではなく京の密集したが広がっている。
空港のフェンスのすぐには、何千台ものがき交う首都速湾岸線があるのだ。
このまま暴を続ければ、あと秒ほどで滑を突き抜け、フェンスを砕して速でる列に突っ込む。
無関係なの々を巻き込み、体は爆発を起こす。
「エンジンの逆噴射を使って!」
絵里が叫んだ。
着陸にエンジンの排気を方に向け、烈なブレーキをかけるシステムだ。
「通常の子スイッチはんでいます」
佐藤は操縦席の央にあるつの巨なエンジンレバーの、さらににある別の黒いレバーを顎でしゃくった。
「あそこにあるのオーバーライドラバーを引きげるしかありません。ワイヤーで物理に逆噴射のカバーをく最の段です」
絵里はシートベルトをし、つのレバーの横にを伸ばした。
「私が引くわ」
「待ってください!」
佐藤の鋭い声が、絵里のを止めた。
「逆噴射レバーはのエンジンで独しています。それをミリのズレもなく、完全に同に番まで引きげなければなりません」
佐藤は自分の元にある方向舵のペダルを必に踏み込みながら言った。
今は輪の向きだけで、体が滑からびさないように直を保っている状態だ。
「もし片方のレバーだけが先にがったり、引く力が違ったりすれば、のブレーキ力に致命な差がまれます。その瞬、体は速280キロでスピンし、横転して炎します」
絵里は本のレバーを見つめた。
使われていない、緊急のい物理レバーだ。
女性の力で本同に、しかも全く同じスピードで引きげるのは至難の業だった。
しでもが遅れれば、体はへ弾きばされる。
が遅れればへ転がる。
「私じゃ、同に同じ力で引けるか分からない」
絵里のが震えた。
これまでは何かあれば、自分が全ての責任を負い、腕力で解決しようとしてきた。
しかし今は、自分の力の限界をはっきりと悟っていた。
失敗すれば、自分たちだけでなくにいる無関係な々まで巻き込んでしまう。
その圧が、絵里のを押し潰そうとしていた。
「誰か伝ってくれるを呼んで!」
佐藤が叫んだ。
「力があって、あなたの言う通りに正確にいてくれる!」
絵里は弾かれたように振り返り、操縦のドアをけた。
歓に湧く客。
その最列で柄な塚がちがり、絵里に向かって親指をてていた。
絵里は彼の目をまっすぐに見つめた。
「塚さん、まだ終わってない! を貸して!」
塚は瞬呆然としたが、絵里のただならぬ気迫にすぐに表を引き締め、通を蹴って操縦へび込んできた。
「どうした、絵里さん? 着陸したんじゃないのか?」
「ブレーキが壊れているの。このままじゃフェンスを突き破ってに突っ込むわ」
絵里は塚を央のパネルのにたせた。
「のレバーをあなたが持って。私はを持つ。私の掛け声にわせて、で同に、同じスピードで番まで引きげるのよ」
塚は事態の刻さを理解し、太い腕でのレバーをしっかりと握りしめた。
「俺の腕力なら、瞬で引きちぎれるぞ」
「だめよ! く引きすぎても遅すぎても、体はスピンして裏返る。私のペースに完全にわせて。いいわね?」
塚は絵里の目を見た。
冒でパニックになり、力任せに操縦桿を引いて体を墜落させかけた男だ。
あのは自分がヒーローになろうとして独した。
しかし今の彼は、絵里の言葉を静かに受け入れ、く頷いた。
「わかった。君の指示に従う」
絵里ものレバーを両で握りしめた。
滑の残りはすでに半分を切っていた。
窓のには、空港のフェンスとその向こうをるのライトがはっきりと見え始めている。
最のの直滑が、いよいよ限界の壁にぶつかろうとしていた。
滑の端が恐ろしい速度で迫ってくる。
窓ガラスの向こうには、羽田空港のコンクリートフェンスがを剥いていた。
その向こうには、湾岸線の無数ののヘッドライトが川のように流れているのが見える。
現速240キロ。
さ200トンの鉄の塊が、巨なミサイルとなってへ突入するまであと秒。
「佐藤さん、ペダルで体をまっすぐに保って!」
絵里の叫びに佐藤は無言で頷き、両で方向舵のペダルをく踏み込んだ。
さな体が座席から浮きがるほどの力を込めている。
輪の向きだけで200トンの暴を制御するのは物理な限界にかった。
体はに細かく首を振りながら、猛烈な摩擦音をげてアスファルトを削り続けている。
絵里はの逆噴射レバーを両でく握りしめた。
隣には柄な塚が、のレバーを握ってっている。
「塚さん、私の声だけを聞いて」
「分かってる。いつでもけるぞ」
塚の額には粒の汗が浮かんでいたが、その目は絵里をまっすぐに見据えていた。
冒で暴した彼はもういない。
彼は自分のな腕力を完全に封印し、絵里の指示のになる準備をえていた。
「カウントダウンするわ。ゼロで引き始める。途で止まらないで、番まで気に引き切るのよ」
絵里はく息を吸い込んだ。
これまでので、彼女は自分の力で状況を支配しようとしてきた。
乗客を声で黙らせ、腕力で押さえ込み、自分が番正しいと信じてきた。
しかし今、彼女が握っているのは半分のレバーだけだ。
半分は塚という自分とは違うのにある。
そして体を支えているのは佐藤という異国の技術者のだ。
自分では何もできない。
皆が完璧なつの歯にならなければ、この暴を止めることはできないのだ。
「くわよ!」
絵里の声が、騒音に包まれた操縦に響き渡った。
「………………ゼロ!」
絵里は渾の力でのレバーをへ引きげた。
同に、塚の太い腕がのレバーを引きげる。
絵里は塚のきを界の端に捉えながら、無識のうちに自分の引くスピードをわずかに調した。
塚もまた、絵里の呼吸にわせるように、途でほんの瞬だけ力を抜いた。
つの全く違うが、空で見えない糸で結ばれたかのように、完璧なシンクロナイズでいた。
ガチャンッ!
本のレバーが同に番のロック位置に叩き込まれた。
その瞬。
ゴォォォォォッ!!
体ののエンジンから、をつんざくような爆音が炸裂した。
通常のには絶対に聞くことのない、気を無理やり引き裂くような音。
エンジンの排気に物理なカバーがかかり、猛烈な推力が方に噴射されたのだ。
「うおおっ!」
塚が声をげ、体ごと方の計器盤に叩きつけられそうになった。
絵里もシートベルトが肩にい込み、呼吸ができなくなるほどの烈な減速Gに襲われた。
見えない巨な壁に速200キロで激突したかのような衝撃。
方の客からは鳴と、荷物が崩れ落ちる音が響く。
体全体がミシミシと激しくきしみ、窓ガラスが振で割れそうになる。
烈な向きのの力で首がさらに面に押し付けられ、輪のタイヤから煙ががった。
しかし、体の姿勢は崩れなかった。
絵里と塚が引いたレバーのタイミングと力が、ミリの狂いもなく完全に同じだったため、のブレーキのバランスが完璧に保たれたのだ。
「止まれ……止まってくれ!」
絵里はレバーを握りしめたまま祈るように叫んだ。
窓のの景が、まるでスローモーションのようにゆっくりと変化し始める。
速200キロ。
150キロ。
100キロ。
猛烈なスピードで流れていたオレンジの誘導灯が、つずつはっきりと形を認識できる速度に落ちていく。
しかし、フェンスはもう目だった。
コンクリートの巨な壁が、フロントガラス全体を覆い尽くさんばかりに迫っている。
その向こうでるのライトが、絵里の目をくらませる。
50キロ。
30キロ。
ブレーキの摩擦音とエンジンの逆噴射の轟音が世界を支配していた。
佐藤はペダルを踏み込んだまま顔をげて、コンクリートの壁を睨みつけていた。
10キロ。
5キロ。
ギギギギギッ!
プシューッ。
体が最にきくに揺れ、そして……完全な静寂が訪れた。
絵里は目をけた。
フロントガラスの向こう、わずかメートルの位置に、羽田空港のコンクリートフェンスが壁のようにっていた。
フェンスの向こう側では、パトカーや消防の赤い回転灯が無数にっている。
止まった。
体はフェンスを突き破ることなく、滑の最の端で完全に止したのだ。
絵里は両で顔を覆い、きく何度も息を吐きした。
震えが止まらなかった。
隣では塚がレバーからをし、信じられないという顔で自分のとフェンスを交互に見ている。
「俺たちの……勝ちだ」
塚が掠れた声で呟いた。
絵里は顔をげ、佐藤の方を見た。
席に座る佐藤は、のペダルからゆっくりと力を抜き、キーボードとトリムホイールからをした。
そして彼女は、自分の膝のにある分く汚れたノートを静かに閉じた。
その表を、さなでそっと撫でる。
本の町の職たちが残した無数の数字。
そのノートが、百の命を乗せた巨な鉄の塊を、空の彼方からこののフェンスのまで、正確に導き切ったのだ。
「佐藤さん」
絵里の声に、佐藤は振り返った。
その顔は汗と油で汚れ、極度の疲労で青ざめていたが、初めてほんのわずかに角ががっていた。
「私の仕事は終わりました」
佐藤の静かな言葉が操縦に響いた。
「皆を、へしてあげて」
絵里は力く頷いた。
これからは客乗務員としての本来の仕事だ。
乗客を全にへろすための最の任務。
しかし今の絵里は、もう以の彼女ではない。
声で命令し、腕力でパニックを抑え込む絵里は、あの夜空に置いてきた。
今の彼女は、百のと共に恐怖を乗り越え、力をわせたつのチームのリーダーだった。
絵里はちがり、マイクをに取って客へのドアをけた。
真っ暗な内に、非常用のさなランプが灯っている。
乗客たちは互いを抱きしめ、声をげて泣いていた。
絵里はマイクのスイッチを入れ、く優しい声で言った。
「皆様、お疲れ様でした。京へようこそ」
その言葉に、内は今番の割れんばかりの歓声と拍に包まれた。