"祖父が私に遺した最後の拒否権" 第3話
ただ、作業着のポケットからした汚れた千円札を枚、私のバッグに無造作にねじ込んだだけだった。
それから。 祖父が倒れたと聞いたも、私は仕事の繁忙期を理由に、病院へ駆けつけたのは危篤のらせが入った当だった。 管に繋がれ、さく縮こまっていた祖父の顔。 私はそのを握ることもできず、ただベッドの元でち尽くしていた。
それなのに、なぜ。 なぜ、番くに逃げた私に、こんな厄介な荷物を背負わせるのか。
「あの……お姉ちゃん」
震える声に顔をげると、遥が泣きそうな目で私を見つめていた。
「お願いだから、サインして。ねえ、お願い……。彼のご両親、今に契約がまとまらないなら、結婚の話は度に戻すって言ってるの。向こうはちゃんとしただから、私がこんな借まみれのの娘だってだけでも肩が狭いのに……」
遥のが、机のをって私の指先に触れた。 たくて、湿っただった。 母もまた、ハンカチで目を押さえながら、消え入りそうな声で呟いた。
「咲……お願いだよ。お母さん、もう夜も膝が痛くて眠れないんだよ。術を受けさせておくれ。お父さんをらせないで……」
族全員の絶望と懇願が、私の両肩にのしかかってくる。 まるで、私がこの署名をためらうこと自体が、族に対する裏切りであり、犯罪であるかのように。
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「……わかってる」
私はく息を吐きし、張った唇をいた。
「お父さん、座って。鳴らないで」
父は荒い息を漏らしながら、忌々しそうに子に腰を落とした。 その目は、私を娘としてではなく、自分のを邪魔する敵のように睨みつけている。
私は、津に向き直った。
「津さん。私には、このをどうこうして族を困らせるつもりはありません。最初から、売却には賛成でした。祖父がどうしてそんな条件をつけたのかはわかりませんが、私がサインをすれば、予定通り千百万円で売却できるのですね?」
「ええ! もちろんでございます、咲様!」 津の顔に、あからさまな堵が広がった。彼は揉みをしながら、を乗りしてきた。
「買い企業様は、すでに付の送準備もえております。咲様さえご同いただければ、何つ問題はございません。お父様のおっしゃる通り、ただの形式な確認に過ぎない条項でございます」
「そうですか」
私は再びボールペンを握った。 い。物のプラスチックのペンが、鉛のようにくじられた。
く終わらせよう。 ここで私がを張ったところで、誰も救われない。 祖父の真など、今さら確かめようもない。んだが残した気まぐれな悪戯に、きているが振り回される筋いはないのだ。
ペン先を、同の署名欄に落とす。
「佐」という文字の第画目をこうとした、その瞬だった。
私の脳裏に、ふと、ある記憶が蘇った。
あれは私がまだ学の頃、の収穫の期だった。 祖父の軽トラックの助席に乗り、荷用の箱を積んで果園の急な坂をっていたのことだ。 急勾配のカーブので、祖父はいつも決まって、げさなほどくブレーキを踏んだ。 幼かった私は、体がにびしそうになるのが怖くて、「おじいちゃん、もっとゆっくり踏んでよ」と文句を言った。
その、祖父はを見据えたまま、く笑ってこう言ったのだ。
『咲、り坂でスピードがちまったにな、番やっちゃいけねえのは、怖がってアクセルからをすだけで済ませることだ。崖が見えてからじゃ遅い。遅れになるに、誰かが嫌がられてもグッと体をかけて、ペダルを踏み抜かなきゃならねえんだ』
――遅れになるに。
ペン先が、の表面でピタリと止まった。
私は、顔をげた。
目のにいる津は、満面の笑みを浮かべたまま、私の元を凝している。 その目は笑っていなかった。獲物が罠にかかるのを待つ、たい計算のが宿っていた。 そして父は、爪を噛みながら、貧乏揺すりを繰り返している。 母はを向き、遥は祈るようにを組んでいる。
全員が、狂気のような切迫のにいた。 「今すぐ」「く」「今に」。 なぜ、そんなに急ぐ必があるのか?
「……津さん」