"祖父が私に遺した最後の拒否権" 第1話
「ここに、署名と捺印をしてくれればいいから」
のスチール机を挟んで差しされた類には、すでに父の角張った署名と、朱肉の掠れた印が並んでいた。 父・健の声は、頼み事をするのそれではない。滞納した賃の支払いを急かすような、苛ちと焦燥がそのまま張り付いていた。
方都の駅にある、季の入った司法士事務所の相談。 ブラインドの隙から差し込むのには、京とは違う、どこか湿り気を帯びたたさが混じっていた。
私は、朝台のはやぶさにび乗ってここまでやってきた。 着ていたネイビーのジャケットの背には、幹線のシートでついた皺がく残っている。 休暇はしか取れなかった。今夜の最終で京の狭いワンルームへ戻らなければ、の朝には本のオフィスでクライアント向けの資料を配らなくてはならない。
「これに名をけば、全部終わるのね?」
私が尋ねると、斜め向かいに座っていた妹の遥が、すがるような線をげてさく頷いた。 歳の遥は、毛玉のついたカーディガンの袖をきつく握りしめている。 彼女の隣には、母の恵子。両膝に性なが溜まっている母は、しくだけでも顔をしかめ、子の肘掛けに全体を預けていた。
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族全員が、私の元にある本の黒いボールペンを見つめている。 くけ。 余計なを挟むな。 それで、すべてが片付くのだから。 無言の圧力が、狭い部の空気をじっとりとくしていた。
机の向こうには、この売買を取り仕切る産仲介業者の男が、物のビジネスバッグを膝に乗せて座っている。名刺には「津」とあった。 津はしきりに腕計を気にしながら、い唇の両端だけを持ちげて笑いを浮かべた。
「ええ、佐伯咲様。お父様からすでにお伺いしている通り、名義の相続登記から売買決済まで、本で括して委任を取り付ける段取りとなっております。京からわざわざご労いただき、恐縮でございます」
祖父・源造がくなってから、ちょうど百が過ぎていた。 祖父が代で墾し、半世紀以にわたって守り続けてきた裾のりんご園。 だが、そのはもうく、まともな利益をしていなかった。
先の遅にやられ、の猛暑で果皮が焼け、の台で実が落ちる。 どれだけにまみれて消毒液を撒き、脚を担いで枝を剪定しても、残る取りは肥料代と械の燃料代で消えていく。 祖父が倒れてからは完全に放置され、今では伸び放題の枝と病害虫の巣窟になりかけていた。
売却の理由は、これ以ないほど現実だった。
母の膝の術と、そののリハビリ費用。 遥の婚約が決まり、相方の実から求められている居の準備と結納の儀礼。 そして、を切り崩しながら果園の固定資産税と維持管理費を払い続けてきた父の、限界寸の活。
売却額は、諸経費を差し引いて約千百万円。 方のあいの傾斜としては、破格とも言える好条件だった。
私には、そのから円たりとも分けてもらうつもりはなかった。 歳で京の学に学して以来、学費の半分は奨学とアルバイトで賄い、就職してからは度も実の敷居を跨いでいなかった。 盆も正も「仕事が忙しい」と言い訳をして逃げ続けた。 あのの、果物の甘い匂いに混じる農薬の饐えた臭いと、族全員が果園の嫌ひとつで笑ったり鳴りったりする息苦しさが、どうしても耐えられなかったからだ。
だから、この売却話を聞いたも、私は即座に賛成した。 誰も継がない、ばかりい潰すなら、さっさと放して現に換えればいい。 父が楽になり、母の術ができ、遥が幸せになれるなら、それが番理な解決策だ。
私はボールペンを指先で持ち直した。 署名欄のい角が、妙に眩しく見える。 これに自分の名をき、印鑑を押す。所は分もかからない。
そうすれば、私は再び京の乾いた、誰にも干渉されない常へ戻ることができる。
そうっていた。
「――失礼いたします。