"一万八千円の伝票" 第19話
「ええ。とても、よく眠れましたよ」
私が何事もなかったかのように平然と答えると、は瞬だけ拍子抜けしたように眉をひそめた。怯えて泣きついてくるか、取り乱して鳴り散らすとでもっていたのだろう。彼はすぐにわざとらしい咳払いをし、隣のの弁護士をで示した。
「ご紹介しましょう。今回のホテル売却の続きを担当してくださる、京の流の弁護士の先方です。わざわざ朝からお越しいただきました」
の弁護士は、事務に軽く会釈をした。配の弁護士が、アタッシェケースから分い契約類の束を取りし、ガラステーブルのに滑らせた。
「佐藤かず子様ですね。本は、このホテルの所権を資系ホテルグループへ譲渡するための、最終なにサインと実印をいただくために参りました」
類の表題には、あの赤いファイルにあった『事業譲渡契約』の文字が並んでいる。
「すでに支配より詳細な経営状況の報告を受けておりますが、率直に申しげまして、当ホテルの設備は著しく老朽化しており、これ以の単独経営は極めて困難です。今なら、買い側も好な買収額を提示してくれております。ご自の今の療養費用にも分充てられるかと。賢なご判断をお勧めいたします」
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配の弁護士は、淡で事務な声でそう言い添えた。 彼らは、が提した偽造の経営赤字報告を鵜呑みにしているのだ。客がのいているのは設備のせいではなく、やが常連客を追い払い、法なぼったくりを働いているからだという真実など、る由もない。
レストランの入り脇では、夜勤けの林さんがエプロンの端をちぎれんばかりに握りしめ、青ざめた顔でこちらを見つめていた。私は彼女に線を送り、「丈夫」と伝えるように、目元だけで微かに微笑んで見せた。
「佐藤様。類の内容は事に支配から説を受けておられるはずです。どうぞ、こちらにご署名とご捺印を」
若い方の弁護士が、ホテルの備品であるっぽいプラスチックの黒いボールペンを私のに差しした。 私はそれにはを触れず、ポケットから夫の古い万を静かに取りし、テーブルのに置いた。
「……しだけ、読ませていただけますか?」
私が類に目を落とそうとすると、支配が苛ちを隠そうともせずに舌打ちをした。
「読む必などありませんよ! 難しい法律用語ばかりだ、寄りにはどうせ分かりゃしない。さっさとサインをすればいいんです!」
弁護士たちのでさえ、横柄な態度を隠そうとしない。
――そのだった。
ウィーン、と正面玄関の自ドアがき、宅配便の配達員がに入ってきた。
「失礼します! 浩司支配宛ての、至急の国際速達郵便のお届けです! ご本様の受領印をお願いします!」
「……私に?」
は怪訝そうに眉を寄せたが、すぐに「ああ、ご苦労」とちがり、フロントへ歩み寄って受領のサインをした。受け取ったのは、の消印が押された、分いエアメールの封筒だった。差の欄には、買収先である資系ファンドの英文字ロゴが鮮に印刷されている。
「フン、契約の最終確認か。向こうも随分と気がいな」
は得げにを鳴らし、弁護士たちに見せつけるようにペーパーナイフで封を切った。 そして、から引きした数枚の英文類に線を落とした――その瞬。
支配の顔から、すべての表が抜け落ちた。
「……え?」
抜けな声が、彼の喉から漏れた。 彼は見かれた両目で、信じられないものを見るように、類の文面を何度も、何度も読み返した。 持っていた類が、カサカサと刻みに震え始める。額から、再び脂ぎったや汗が吹きし、顎へと滴り落ちていくのを、私はややかに見つめていた。
「支配、どうかされましたか?」
審にった京の弁護士が尋ねると、はハッとして、類を慌てて背に隠した。
「い、いいえ! 何でもありません! ただの、事務な業務連絡です……!」
その声はずり、瞳は血り、元は落ち着きなく彷徨っていた。