"母の職場で死んでいた私" 第22話
母はビクッとを止め、段ボール箱を抱きしめたまま、そのにち尽くした。
さんはゆっくりと歩み寄ってきた。 そのには、にさな青い柄が刺繍された、古びた綿のハンカチが握られていた。
「これ……返すわ」
さんが差ししたハンカチを見て、母の息が止まった。
「覚えてる? の……あなたが『娘の周忌が済みました』って、課内のみんなに配った作りのハンカチよ」
さんの声は、鳴るでもなく、震えるでもなく、ただえ切っていた。
「私ね、これずっと捨てられなかったの。あなたがで、夜な夜な娘さんのことをいながら針をめたんじゃないかとったら……勿体無くて使えなくて、お守りみたいにデスクの引きしにしまってあったのよ」
さんは自嘲するように、フッとく笑った。
「馬鹿みたいね、私。どんな顔をしてこれ縫ってたの? 娘がきてるって分かってて、京で元気に暮らしてるってってて……どんな顔をして、私たちにこれを配ったの?」
「さん……」
母の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
「謝らないで」
さんは母の元にある段ボール箱の隙に、そのハンカチを乱暴に突っ込んだ。
「謝られたら、私が今まであなたに注いできた同まで、全部惨めになるじゃない。
広告
……私、あなたのお母さん代わりになろうと必だったのよ。しでも元気になってほしくて、旅のお産を真っ先に渡して、あなたのでは孫の話も子供の話もしないように、ずっと気を遣ってきたのよ」
さんの瞳が、真っ赤に潤んでいた。 けれど、その涙は決して零れ落ちなかった。 彼女のにある矜持が、それを拒んでいた。
「敏子さん。あなたのあの寂しそうな横顔を見るたびに、胸が痛かった。でも……あれは全部、嘘だったのね。自分を守るための、演技だったのね」
「違うの……演技なんかじゃ……!」
「もういいのよ」
さんはたく母の言葉を遮った。 そして、私の方を瞥した。
「美紀ちゃん。……あなたがきててよかった。それは、本当に、としてよかったとうわ。でもね……私は、あなたのお母さんを許さない。そして、あなたたちのことも、度といしたくない」
さんは踵を返した。 コツ、コツ、とヒールの音が廊に響き、やがて湯のドアの向こうへと消えていった。
廊には、再び静寂が戻った。
母は抱えた段ボール箱に顔を埋めるようにして、音もなく泣いていた。 突っ込まれた青い柄のハンカチが、段ボールの茶い肌ので、ひどくく浮きがっていた。
の友も、信頼も、すべてが終わった瞬だった。 母が嘘の代償として得ていた平穏は、こうして完全に清算されたのだ。
「こう、お母さん」
私は母の背にを置いた。
母はさく頷き、涙を拭うこともせず、へ向かって歩きした。
*
本社の正面玄関をた瞬、たいが私たちの頬を撫でた。
空を見げると、いつのにか鉛のは散り散りに流れ、の乾いた青空がどこまでも広がっていた。 正午過ぎのい差しが、容赦なく私たちの全を照らししていた。
母は眩しそうに目を細め、胸いっぱいにの空気を吸い込んだ。 その肩から、何にも巻き付いていたい鎖が、音をてて崩れ落ちていくのが見えたような気がした。
もう、誰の顔を窺う必もなかった。 会社で無理に暗い顔を作る必も、娘の話題に怯えて息を潜める必もない。 『な母親』という、母を縛り付け、窒息させかけていた呪縛から、母はようやく解放されたのだ。
すべてを失うことによって。
「……眩しいわね」
母が、ぽつりと呟いた。 その横顔には、まだ涙の跡がく残っていたが、その瞳には、昨夜までの狂気じみた濁りは消えていた。
「うん。眩しいね」
私は母のから、段ボール箱を受け取った。
「帰ろう。実を引き払う準備をしなきゃ」
「ええ……そうね」
母はさく頷き、私の隣に並んだ。 私たちは、誰の線も気にすることなく、の太陽が照らすアスファルトのを、歩歩、歩いて帰った。
*
それからヶのが流れた。
季節はにみ、の桜の蕾が赤く膨らみ始めるの旬。