"十八年ぶりの切符「次は三人で来い」" 第1話
台所のステンレスシンクに、夕で使った皿がなりって沈んでいた。蛇から細く流れ落ちるが、黄いスポンジに吸い込まれた洗剤の泡をく膨らませ、シンクの底へと滑り落ちていく。泡が弾けるかすかな音だけが、の奥にこびりついてれなかった。
美はゴム袋をはめたをかし、流ので皿の油汚れをゆっくりと拭い落とした。スポンジを置き、流で泡を洗い流す。指先に伝わる陶器のたさが、暗くなりかけた夕暮れの内に沈み込む自分の識を、辛うじて現実の輪郭へと繋ぎ止めていた。
「母さん、ちょっと部戻ってプリントやるから」
背から階段をがるリズミカルな音が響いた。美は濡れたを止め、シンクのにある切りかごへ皿をてかけながら、肩越しに振り返った。
階段の踊りへ差し掛かっていたのは、になる息子の蒼太だった。今で歳になった蒼太は、こので急激に背が伸び、今では百センチの美を優に見ろすほどの体躯になっている。部活の陸で陽に焼けた浅黒い横顔、制のシャツから突きた肩甲骨の尖り具を見るたび、美の胸にはの流れのさが容赦なく突き刺さった。
「蒼太、お茶机に置いてあるからね」 「ん、サンキュ」
広告
蒼太はく応じると、制のポケットに片を突っ込んだまま階へと消え、やがてバタンと静かにドアの閉まる音が響いた。
入れ替わるように、居のローテーブルので座子にく腰掛けていた夫のが、湯呑みを両で包み直しながら、さく息を漏らした。居の型テレビからは、淡々とした女性アナウンサーの声で全国の気象報が流れている。画面のが、の丸みを帯びた縁鏡のレンズに青く反射していた。
「今はえるな。はもっとがくなるらしい」
はテレビの画面から線をさず、湯呑みを元へと運んで、温かいほうじ茶をゆっくりとすすった。美はゴム袋をして蛇をきっちりと締め、清潔な布巾で指先を本ずつ丁寧に拭きながら、夫の丸まった背を見つめた。
結婚して。が築いてきた活は、波のたない、ごく穏やかなものだった。きな贅沢こそできないものの、の勤める会社は定しており、美も所のスーパーでパートをしながら、無理のない範囲で計を支えてきた。取りてて刻な諍いもなく、世から見れば模範な庭と言っていい。
ただつだけ、夫のにとって解な空がしていたはずだった。
結婚してからの、美はただの度も、自分の故郷へを踏み入れていなかった。
正の帰省ラッシュのニュースがテレビで流れるも、お盆の迎えの季節も、親戚の法事の報せが届いたでさえ、美は頑なに実へ帰ろうとはしなかった。のへはに度きちんと顔をし、義父母に対しても礼を尽くしてきたが、美自のの話題になると、彼女は決まってを閉ざすか、あるいは巧みに話題を逸らした。
美の故郷は、幹線から来線の特急へと乗り継ぎ、さらにそこから数本しかない古い線バスに揺られてを越えた先にある、数百ほどのさなあいのだった。になればの背丈を超える豪に閉ざされ、陸の孤島と化すような厳しいだ。
婚の頃、は度だけ、議そうに尋ねてきたことがあった。
『美、実には帰らなくていいのか? いから変だろうけど、たまには顔を見せないと配するんじゃないか』
その、美は作り笑いを浮かべ、茶碗を拭くを止めずに背越しに答えたのだった。
『いいのよ。とバスを乗り継ぐだけで半以かかるし、おもかかるしね。わざわざ帰らなくていいの。たまに話くらいはしてるんだから』
はそれ以、何も言わなかった。のの柔らかい部分にで踏み入るような真似を決してしないのが、という男の美徳であり、優しさだった。
美はその無言のいやりに甘え、ものあいだ、自らの故郷に頑丈な鍵をかけ続けてきたのだ。